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近世の教会 ヨハネ黙示録3:7-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.9.22

 フィラデルフィアの教会は、17世紀から18世紀の教会を表しているのではないかと思います。宗教改革以前はカトリックの教皇と国王がうまくやっていました。ところが、宗教改革後は、国民自体が目覚め、自分たちの国を作ろうとしました。しかし、彼らはカトリックあるいはプロテスタントの信仰がありましたので、そのことで戦争になりました。「同じ神さまを信じ、神さまが創った人間同士がどうして?」と思いますが、それが罪ある人間です。

1.歴史における近世の教会

 ルターによる宗教改革の後、ヨーロッパ中を巻き込む「30年戦争」がありました。カトリックとプロテスタントの対立による最大かつ最後の宗教戦争と言われています。この戦争で約1000万人が死亡、ドイツの人口は約35%減となりました。ウェストファリア条約後、ヨーロッパの秩序は、皇帝や教皇の超国家的な権力から諸国民国家の競合関係へと移ります。キリスト教会は、北欧とドイツはツター派、オランダとスイスは改革派、イギリスは英国国教会、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ポーランドはカトリックになります。第一に対抗改革を行ったカトリック教会についてお話ししたいと思います。1545年、トリエント公会議が開かれ、18年間にわたって継続されました。イグナティウス・ロヨラによって創設されたイエズス会が、「教皇の精鋭部隊」として教皇から正式に認可されました。1549年には、ブラジルにおけるイエズス会士による宣教が開始されました。その後、宣教はペルー、メキシコを経て、フロリダとカルフォルニアに到達します。日本にはフランシスコ・ザビエルがやって、多くの人が救いに導かれました。イエズス会の世界宣教の特徴として、適応主義と呼ばれる基本方針、つまり、宣教地の文化や言語を学び、現地の宗教的文化的状況に適応した宣教方針があげられます。イエズス会がブラジルのインディオを保護しようとしたので、ポルトガルから迫害が起こりました。ポルトガル王国は、15世紀にはヨーロッパ各国に先駆けて海外進出を行い、アフリカ西岸かインド洋を経て、東アジアへと通商を拡大しました。カトリックのラテンアメリカでの宣教活動は、ポルトガル、スペインの植民地征服と一致して行われました。しかし、インディオの奴隷化に反対したドミニコ会士はスペイン政府にその不当性を訴え続けました。海王帝国として繁栄したポルトガルとスペインの覇権も、16世紀後半には次第に衰退に向かいます。1588年、イングランドによるスペイン無敵艦隊勝利後、覇権は、オランダ、フランス、イングランドに移ります。

 次に宗教改革後のドイツのことをお話しいたします。30年戦争後、神聖ローマ帝国は消滅し、オランダやスイスが独立して現在のドイツになりました。ルターと改革派は相互に協議論争を行い、その思想が、信条・信仰告白文として表明されました。正統主義は、各教派の立場を明確に反映したものですが、いずれも宗教改革の伝統を共有しており、聖書原理と信仰義認論においては合致しています。それは、聖書が無条件に真理であり無謬であること、そして霊感されていると認識する立場でした。しかし、正統主義はあまりにも、信仰の知性主義、あるいは客観主義であったために、17世紀後半には敬虔主義が起こりました。これはプロテスタント教会の内部から生まれた信仰刷新運動であり、ルターの精神である個人の体験(内面性)と信仰の道徳的実践を強調しました。シュペイナーから始まったこの覚醒運動は、北ドイツに広まり、フランケによって拡大されました。その影響を受けたツィンツェインドルフは「モラヴィア兄弟団」を形成し、市民や農民層にも広がっていきました。フランス革命とナポレオン戦争後のドイツには、ルター派と改革派の合同教会が成立します。元来の正統主義、敬虔主義の上に、啓蒙主義が加わりました。正統主義を堅持する保守系に対し、伝統の学問的批判的再考をめざす神学が現れました。その当時は、カントやヘーゲルが活躍していましたので、彼らの哲学思想を取り入れ、聖書の歴史批評を積極的に行いました。伝統に対する自由な学問的批判を行う神学はしばしば自由主義神学と呼ばれるようになりました。この続きは、次回の「世の終わりの教会」でお話しします。

 その次はフランスです。宗教改革の進展によって、フランスにおいてもカトリックとプロテスタントの対立が激しくなり、1562年に「ユグノー戦争」と呼ばれる宗教戦争にまで発展しました。1572年、カトリックはユグノーの貴族たちを襲いました。「サン・バルテミの虐殺」と呼ばれ、犠牲者の数は1万から3万人とされます。1598年、アンリ4世がナントの勅令を発布して、ユグノー(新教徒)の自由を認めました。しかし、ブルボン家のルイ14世がカトリック教会をフランス王家にしようと、ナントの勅令を廃止しました。その後、ユグノーたちは国外へと追いやられました。しかし、ブルボン家の絶対王政もフランス革命(1789年)によって終わりを告げ、革命政府はフランスの世俗化を推進しました。1801年にナポレオンは教皇ピウス7世と政教協約を締結しました。その結果、カトリックは国家の宗教ではないものの、国民の多数の宗教で有り続けています。フランス革命は、近世ヨーロッパの政治的思想的運動である、啓蒙主義の帰結と言えるものです。啓蒙主義は、近代民主主義国家の展開において重要な移置を占めています。しかし、そこから生まれた合理主義は、伝統的なキリスト教を批判するものであり、フランスのカトリック教会にとっては、宗教改革以降の最大の脅威となりました。1789年に議会は教会財産の没収、国有化を行い、司教司祭の実質的な公務員化を断行しました。その後、ブルボン家が王政復古を計りましたが、それが失敗して、フランスは世俗主義の共和制国家となり、現在に至っています。

 最後はイングランドです。ジェームズ2世は、かつて清教徒革命のためにフランスに亡命していた頃にカトリックに改宗しました。彼はカトリック教徒を重用し、これに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免しました。ほとんどの議員がプロテスタントであり、カトリックの支配に対して敵意を持つイングランド議会と国王との間に対立が深まりました。議会は後継者問題が起こったとき、ジェームズ2世の娘メアリとオランダ総督ウィリアムを結婚させ、ジェームズ2世を追い出しました。これは、「名誉革命」と呼ばれる一種のクーデターです。その後、穏健な立憲君主制と寛容な国教会、そして政教分離の成立に至ります。こうした経緯において成立したイギリスの国教会は、よりカトリックに近い流れ(ハイチャーチ)とよりピューリタンに近い流れ(ロー・チャーチ)、そして近代的な立場を持つ流れ、と多様な立場を内包するものになりました。17世紀後半、キリスト教と啓蒙主義思想がしばしば敵対しつつありましたが、イギリスでは「理神論」が起こりました。理神論というのは神が世界を創造した後は、時計のごとく自然法則に従い、被造物に干渉しないという考えです。創造後の宇宙は自己発展する力を持つとされ、奇跡や預言などによる介入はあり得ないと排除しました。この考えは、フランスのヴォルテールやルソー、ドイツのレッシングやカントに影響を与えました。簡単に言うと、人間の理性がすべての尺度になり、啓示とか超自然的なものを排除するようになります。神にかわって、「自然の力」とか「自然の法則」が重んじられるようになります。18世紀前半のイギリスは、イングランドとスコットランドの合同に成功して「大ブリテン連合王国」を成立させ、さらにアイルランドを武力降服させました。長期にわたる対フランス戦争においてフランス軍を陸海に破り、海外に広大な植民地を獲得し、ここに世界的覇権を握る大英帝国の基礎を築きました。金融制度は整備され、海外発展に伴う商業の著しい進歩により、イギリスは世界一の商業国となり、ロンドンは世界貿易の中心地となりました。このような国家的飛躍の時期にもかかわらず、国民の霊的生命は衰退していました。長期間の闘争と流血のくり返された嵐の宗教改革時代は過ぎ去り、争いよりは平和を、宗教的熱心よりは温和な合理的宗教を歓迎する空気が支配しました。時代の風潮は、繁栄する社会の商業的精神に触発された物質的利益追求であったので、神の国よりもこの世への関心が集中し、人々の宗教心はいっそう冷却しました。その時、ロンドンにおいて、ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーとジョージ・ホイットフィールドという三人の偉大な指導者の出現によって初めて、福音主義の復興は力強い、満ち溢れるような流れが生まれました。ウェスレーのメソジスト運動は巨大なものへと成長し、産業革命期の混乱・退廃したイギリス社会に一大変革をもたらしました。

 私たちは学校で世界史を学びますが、キリスト教との関係で学ぶことはないと思います。私たちは近世というと、フランス革命とか啓蒙主義を連想するかもしれません。近世は一口で言うと、ローマ・カトリック教会と独裁的な王様から脱却し、国民主体による国家を作りだそうとする時代です。しかし、彼らの根底にあるのはキリスト教であり、聖書であることは間違いありません。しかし、啓蒙主義思想によって啓示よりも、人間の理性に頼るところが多くなり、やがては聖書まで解体してしまいます。また、産業革命に入ってくると、お金や物が最優先され、霊的に退廃してきます。しかし、不思議なことに霊的復興、リバイバルも各地で起ってきます。リバイバルの火はアメリカへと渡っていきます。中部植民地やニューイングランド、ヴァージニアにリバイバルが起こりました。聖書に「心の貧しい者は幸いです」とありますが、人々が霊的に燃えるのは経済的に満たされた平和な時代よりも、霊的にも経済的にも不安定な時代なのかもしれません。なぜなら、その時こそ、神に頼るからではないでしょうか?人間の理性で神さまは分かりません。私たちが霊的に飢え渇き、貧しくなるとき、神さまは豊かに現れてくださいます。

2.フィラデルフィヤにある教会

 後半は黙示録が預言している、「フィラデルフィヤにある教会」について語りたいと思います。おそらく、神さまは国々の情勢にではなく、もっと別なことに興味がありそうです。黙示録3:7「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。フィラデルフィヤは「兄弟愛」と言う意味です。主は彼らに「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と言われました。主にある兄弟たちは最初、互いに争いました。ドイツ30年戦争では多くの人たちが血を流しました。フランスでもカトリックがユグノーの貴族たちを虐殺しました。イギリスでは国教会とカトリックが争いました。互いに戦って尊い人命を失ってから、やっと条約が締結され、平和が訪れました。兄弟愛とまでは言えませんが、交わりを回復していったことは確かです。戦争は悪魔のリバイバルです。何故、同じ神さまを信じているのに、あのように戦うのか信じられません。歴史を学んだ人たちが必ず躓く汚点です。でも、人間は多くの過ちを犯した後で、目が覚め、神さまに目を向けるようになります。プロテスタント教会は、カトリックから色んなきっかけで出たため、たくさんの教団教派が生まれてしまいました。教義や神学は違いますが、キリストを救い主として信じていることは変わりありません。三位一体の教理も共通して持っています。かなり不完全ではありますが、17,18世紀の教会はフィラデルフィヤ「兄弟愛」教会と言うことができるかもしれません。黙示録38「私は、あなたの行いを知っている。見よ。私はだれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」とあります。奥山実師は「世界中に福音の門戸が開かれ、世界宣教が盛んに行われた時期である』と言っています。宗教改革の後、カトリックは目が覚めたように世界宣教をしていきます。この宣教は実際には、バチカンではなく、イエズス会やフランシスコ会などの修道会が行ったのです。だいぶ遅れてから、プロテスタントもウィリアム・ケアリーによって宣教会を持つことができるようになりました。奥山師は、教会が宣教をするのではなく、使徒の働きのように「パウロの一行」である宣教会がやるべきなのですと主張しておられます。

 私は、前半の世界史と黙示録3章を照らし合わせながら、この時代は「自由」ということが3つ方面で現れているように思えました。第一は信教の自由です。4世紀から16世紀までは、ローマ・カトリックの支配のもとにありました。それは教皇を頂点としたピラミッド構造であり、それに国王の権力が加担していました。宗教改革によって、教皇と国王が分離しました。やがて、国王は名ばかりで、諸侯や国民で信仰を持つようになりました。しかし、国民はそれぞれの、力ある王様や貴族や領主が持つ宗教的な立場に従っていました。そのため、30年戦争など宗教間の醜い争いが起こりました。この世の人たちから見たら、全くの躓きです。しかし、黙示録38後半から10節「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とあります。サタンの会衆に属する宗教的団体(教会)から、少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった人たちがいました。彼らは忍耐して主のことばを守ったのです。形では、ルター派と改革派、国教会と3つに大きく分かれました。でも、その中に純粋に信仰を守ろうとしたフィラデルフィヤ(兄弟愛の教会)がいたのです。フランスでは迫害を受けたユグノーたちです。ユグノーとは「誓約仲間」という意味です。彼らはカルヴァン派プロテスタントで、手工業者・独立自営農民・小商人に多くいました。彼らがフランスの金融業、工業、商業の担い手でした。しかし、迫害を逃れてイギリスやドイツに渡り、亡命先の経済を発展させました。もう1つはモラヴィア兄弟団です。ツィンツェインドルフ伯爵の領地に逃れてきたフス派兄弟団の群れが、ヘンフルート(主の守り)と呼ばれる共同体を形成しました。そこに、各地で迫害されていた敬虔派、アナバプテストも逃れてきました。最初は互いに権利を主張し合って問題が絶えませんでした。しかし、1727813日の聖餐式で全員が聖霊の力を経験して、モラヴィア兄弟団が発足しました。ジョン・ウェスレーは1735年アメリカのジョージアへ行く途中、モラヴィア兄弟団の敬虔主義の影響を強く受けました。なぜなら、航海中の嵐の中で平安を保ち、神を賛美する彼らに感動したからです。ジョン・ウェスレーはモラヴィア兄弟団の宣教師ペーター・ベーラーの信仰義認の説教を聞いて、信仰の確信を得ました。さらに、19世紀初頭、主はジョン・ネルソン・ダービーの下に、いわゆるブラザレンを起こされました。ブラザレン運動は、宗教改革より偉大であると言う人もいます。このように信教の自由がフィラデルフィアの教会です。

 第二は人権の自由、人権の解放です。一般国民はかつてローマ・カトリック教会の外にいました。カトリックは教皇と司教などの聖職者によって支配され、一般民衆は教会の外でした。また、十字軍の後、王様による封建主義が強固になり、土地を持たない農民がほとんどでした。イギリスでは名誉革命、ドイツでは30年戦争、そしてフランスではフランス革命が起こりました。どうなったかというと、国民主体による政治の時代がやってきました。啓蒙主義思想も手伝い、「国家とは何か、政治とは何か」ということが問われはじめました。フランスでは1789年に「人間及び市民の権利宣言」を国民議会で採択しました。フランス国旗の青・白・赤の3つの色は、自由、平等、友愛という意味があります。イングランドは1707年、スコットランドを併合して「大ブリテン王国」になりました。共通の議会を持ち一人の国王をいただく連合王国になりました。オランダは、80年の独立戦争を経て、1648年に独立しました。こう考えると、人権の自由というのはタダではもらえないということです。ヨーロッパの各国においては、血の代価、命を払って獲得したものです。「戦争はいけない」と言えばそれまでですが、人権の自由のためには、多大な犠牲が伴うことも確かです。日本はこのような歴史がないので、人権や平和のために戦うという考えがありません。民主主義も他国からあてがわれたような感じがあり、勝ち取ったという考えがありません。イギリスは19世紀には議会政治が確立しますが、それまで幾多の苦難を経なければなりませんでした。私たち日本はイギリス政府の良いとこ取りではないかと思います。黙示録3:11,12「 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。」ここに「勝利」ということばがありますが、冠を守るために戦う必要があるということを暗示しています。ここで言われている冠は人権以上ものであり、信仰を全うした者に与えられる褒賞です。

 第三は思想の自由です。宗教改革以前は、ローマ・カトリック教会が決定したことがすべての基準でした。また、聖書が自由に読めないので、いろんな迷信に縛られていました。しかし、南ヨーロッパではルネッサンス、北ヨーロッパでは宗教改革が起こりました。それは「カトリック教会」という宗教から抜け出すという自由でありました。ルネッサンスは、古代ギリシャ・ローマの文芸復興であり、初代教会の霊的財産をすべて捨てて、古代ギリシャ・ローマまで戻りました。しかし、宗教改革は聖書を土台とした信仰の回復であります。一般の人々がやっと自国のことばで聖書を読めるようになったのです。最初、自国の言葉で聖書を訳した人たちは迫害され、殺されました。このように自由に聖書を読めるのは彼らのおかげです。啓蒙主義思想は最初、信仰を合理化する考え方でありました。ルソーやモンテスキューなどの啓蒙主義は政治や科学の発展にはとても役に立ちました。ところが、調子に乗って、聖書を歴的な書物の1つに考えるようになり、啓示や霊感を否定してしまったのです。スピノザやカントが出て来て、聖書の神とは全く違った方向に行きます。理性は神さまが与えてくれたすばらしい賜物の1つです。でも、理性で神さまのことを知ろうとしたら大間違いです。たとえば、「蟻が人間とは何か?」と研究しても、人間のことがどのくらい分かるでしょう。思想や哲学の重要性は認めますが、私たちは神の被造物であり、限られた存在であることを知るべきです。もし、神さまのことを知りたいなら、神さまご自身が、私たちに開示してくれなれば分かりません。歴史的にはローマ・カトリックという宗教からは自由になりました。しかし、神さまから自由になることではありません。黙示録3:13「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と書いてあります。イエス様も地上でおられた頃、「耳のあるものは聞きなさい」と言われました。現在は御霊を通して、イエス様が私たちに語っておられます。私たちの知性は、創造主なる神さまに向けるとき、はじめてその方向が定められます。また、御霊による啓示こそが、本当の発明や発見につながるのです。なぜなら、この宇宙や自然界は、知恵者なる神さまが創られたからです。そこに一定の法則や原理があるのは、それが偶然にできたからではなく、創造主なる神が造られた証拠であります。箴言17「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」とあります。この世界は閉じられた世界ではなく、今も神さまが奇跡をもって関与してくださいます。

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2019年9月13日 (金)

パウロの教会観 エペソ2:19-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.15 

 きょうは教会とは何かということを学びたいと思います。教会とは建物ではなく、私たち自身です。イエス様を信じている群れ、そのものが教会です。少し前に、教会の歴史を学びました。教会が国のものになったために、制度化していのちがなくなりました。過去、長い間、いろんな間違いを犯しましたが、聖書に立ち返るのが一番です。使徒パウロはエペソ人への手紙で、教会とは何かということを述べています。

1.神の家族

 教会とは神の家族です。神の家族において最も重要なことは互いに愛し合うことです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」「こういうわけで」と書かれていますので、そのまえに神の家族になるための理由があるということです。何故、私たちは神の家族なのでしょうか?一般に、家族というのは、同じ親から生まれた子どもたちです。教会ではクリスチャンを兄弟姉妹と呼んでいます。私が初めて教会に来たとき、週報を見てびっくりしました。〇〇兄とか、○○姉と書かれているので、「ああ、この教会は親族が集まっている教会なのかな?」と思いました。洗礼を受けた後だったと思いますが、姉妹方が私に「鈴木兄弟、二階で、昼ごはんどうですか?」と誘うのです。「気持ち悪い!」と思いました。今は、その理由が分かるので平気ですが、初めて来た人はきっと驚くと思います。なぜ、お互いが兄弟姉妹になるのでしょうか?それは、同じお父さんを持っているからです。私たちはかつて、霊的に死んでいた存在でした。しかし、キリストを信じて恵みによって救われました。言いかえると、霊的に新しく生まれたということです。すると、神さまが今度は、「天のお父様」になります。パウロは「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたからだと言いました。私たちはキリストを信じ、洗礼を受けて、神の家族の仲間入りしたのです。ごめんなさい。まだ、そうでない方も会衆には含まれていますが、おおまかに言ってしまいました。

 家族で最も重要なことは、互いに愛し合うことです。それはこの世の家族でも、神の家族でも同じことです。その家庭で生まれたなら、どんな人でも家族の一員です。頭の良し悪し、何かができるとかできないとか、体の状態がどうであるかなど、全く関係ありません。無条件で、家族の一員になることができます。家族とは共通したDNAを持つ、運命共同体と言うことができます。クリスチャンはどうなのでしょう?私たちが神の家族と言うとき、やはり、何ができるとかできないとか関係がありません。しかし、どこかの教会では、「奉仕ができる若い人が良い」とか、「お金があって社会的地位のある人が良い」と思っているかもしれません。教会の牧師が、そんなこと全く思っていないというなら嘘になるでしょう。もし、教会が会社であるなら、能力のある人を望むでしょう。もし、教会が軍隊であるなら、戦力になる人を望むでしょう。でも、教会が家族ならば、その家で生まれたという一点だけです。私たちは天地を創られた全能の神さまのDNAを持っています。神の子どもですから、御国の相続者であり、リッチな存在です。

 でも、聖書にはそう書いてあっても、急に「神の家族」「兄弟姉妹」にはなれません。「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。なぜでしょう?多くの場合、私たちは不完全な家族の中で生まれ育ったからです。もちろん、愛のある恵まれた家庭で生まれた人もいるでしょう。お父さんが大きな声を一度も上げたことがない。お母さんは優しくて笑顔が絶えなかった。めったにはいないと思いますが、いると思います。でも、多くの場合は、無責任な父親を憎んだり、ヒステリックなお母さんを憎んだりしています。父と母が喧嘩しているのを見ると、兄弟同士も喧嘩してしまいます。「子どもに対する一番の教育は、夫婦が仲良くすることだ」と言われますが、仮面夫婦はもっとまずいですね。つまり、父や母など、家族に関する傷を持ったまま、教会に来ます。いくら聖霊によって新しく生まれても、心が全部生まれ変わるわけではありません。教会の中には、馬の合わないというか、愛せない人が一人や二人、三人、四人くらいはいるものです。何故、教会に来てまで、そういう人がいるのでしょう?実はそれは神さまの計画であり、教会は愛するところでもありますが、愛を学ぶところでもあるのです。人間関係の傷は、人間関係でしか癒すことができないことを学ぶべきであります。

 良く、教会に来て、「あの人に躓いた」「この人に躓いた」「牧師にも躓いた」とか言って、教会を去る人がいます。しかし、それはお互い様なのです。私たちは天国に行くまで、工事中なのです。罪赦され、義とされていますが、人格的にはみな未完成です。よく、工事現場の前に看板が立っています。ヘルメットを脱いだ人が「工事中、ご迷惑をおかけします」、頭を下げて謝っています。私たちは「この人すばらしいクリスチャンに違いない」と思って近づくと、目の前に大きな穴ぼこがあって転落するかもしれません。だから、どんな人でも「工事中」なのです。ですから、お互いに「工事中!」というバッチを胸につけて、交わると大丈夫です。でも、すばらしい約束もあります。「こういうわけで」の前にこのように書かれています。エペソ216,18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」そうです。キリストの十字架が、私たちが持っている敵意を葬ってくださったのです。これはアダム以来の人を愛せない罪です。敵意は十字架によって葬り去られたのです。もう1つは、私たちは「キリストによって」、キリストを間に入れて、媒介的に愛し合うことができるのです。夫婦であっても、キリストなしで愛し合うことは不可能です。お互いの罪のとげを受け止めてくださるキリストを間にお招きする必要があります。私たちは、無媒介的に愛し合うことは不可能です。キリストを媒介して、キリストをクッションのように間に入れて、互いに愛し合うことができるのです。教会は神の家族です。能力のあるなし、身分のあるなし、教育のあるなしは関係ありません。キリストによって生まれ変わった、同じ天の父を持つ神の家族なのです。

2.キリストのからだ

 教会とはキリストのからだです。キリストのからだにおいてもっとも重要なことは互いに仕え合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ1:23「教会はキリストのからだであり」と書かれています。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ」とあります。端的に言いますと、教会のかしらはキリストであり、私たちひとり一人はキリストのからだです。からだはかしらの命令に従う存在です。キリストは、今は天におられます。そして、キリストのからだが地上にあります。ということは、私たちはこの地上においてキリストの命令を実行するように召されているということです。かつて、キリストはこの地上で福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、人々を教え、助け、導きました。かつて、キリストがなされたことをからだである私たちが、継続的に行うように召されているということです。レイ・ステッドマンが『伸び行く教会』という本でこう述べています。「もし受肉がイエスの地上の生涯で終わったと考えるなら、大きな誤りを犯したことになります。受肉は今もなお継続中です。イエスの生命は今もなお人々の間に現されています。もっともそれは、地上の一箇所に制約される個々の肉体を通してではなく、教会という複合の共同体を通してなのです。」つまり、私たちはキリストのからだの各器官であり、全部、合わさったものが、キリストそのものなのだということです。もし、そうであるなら、教会の存在目的と、自分がそのために何をするかが自ずと分かってくるでしょう。

 キリストのからだについてもっと詳しく述べているのがⅠコリント12章です。パウロはキリストの各器官は、御霊の賜物のことであると言っています。Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」「おのおのに」とありますので、ひとりの例外もなく、御霊の賜物が与えられているということです。Ⅰコリント12章には、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力と9つあげられています。これらは「現れの賜物」と言われ、奇跡的な賜物です。しかし、ローマ12章には性格的な賜物もあります。預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善の7つです。Ⅰペテロ4章には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(10節)と書かれています。さきほどのレイ・ステッドマンが『伸び行く教会』で、興味深いことを述べています。「キリストのからだには4つの主要系統があり、それとの依存関係において、からだの各部分はそれぞれの機能を課しています。その4つとは、からだの骨組みとなる骨格および筋肉、神経系統、消化器系等、それに循環器系等です。からだの中には、生殖器系統などのように、生命そのものにとって別になくても困らないものもありますが、この4つはそうではありません。」レイ・ステッドマンが言う4つのことは次のポイントでお話しいたしますが、Ⅰコリント12後半にそのヒントが記されています。Ⅰコリント1227-28「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」神さまがからだをちゃんと動かすために、ある人たちを任命しているようです。「第一に使徒、次に預言者、次に教師」と書いてあります。残念ながら現代の教会では、第一であるべき使徒、その次の預言者がないがしろにされています。教団や牧師がキリストのからだを動かすならば、いろんな支障が出てくるのは当然です。ちなみに牧師はキリストのからだのかしら(ボス)ではありません。かしらはあくまでもキリストです。韓国で開かれた牧師セミナーで、講師が「牧師はからだのどの部分ですか?」と質問しました。しばらく沈黙が続いた後、一人の牧師が大声で「わかりました」と、手を上げました。「では、どこですか?」と聞くと、「はい、首です」と答えました。「なぜですか?」と聞くと、「はい、牧師は、かしらであるキリストを自由に回すことができる首の部分です」と答えたそうです。真実は教師・牧師はからだの主要系統のどれかにあたります。

 私たちひとり一人はキリストのからだの器官の一部です。肢体としてみるなら、手、足、目、耳、口です。医学的に見るなら、心臓、脳、肺、胃、腸、血管、骨、筋肉、神経…総合病院を連想します。宇宙工学的には、盲腸ですら無駄ではないと言われています。Ⅰコリント1221,22「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」アーメン。体の各器官で重要なことは、からだにつながっていないと、自分の働きができないということです。からだで心臓は重要な器官ですが、もし、心臓が「俺が一番偉い。俺は誰の助けも必要としない。だから、からだから独立して働く」と言ったならどうなるでしょう。道ばたにころがっている心臓を想像してみてください。ただ、空気を送っているポンプに過ぎないでしょう。まもなく、心臓自体も死んでしまいます。パウロは「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(エペソ416と言っています。私たちひとり一人は組み合わされ、結び合わされる必要があるんだということです。キリストのからだは機械でもなく、この世の組織でもありません。キリストのいのちを共有する有機体です。Ⅰコリント1225,26「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」当教会では、賜物と召命に従って、たくさんの奉仕グループがあることを感謝します。もちろん、奉仕は教会内のことだけではありません。かつて、キリストがこの地上で行なっていたことを、私たちキリストのからだが、キリストの命令を受けつつ、継続拡大していきたいと思います。

3.聖霊の宮

教会とは聖霊の宮(建物)です。聖霊の宮においてもっとも重要なことは互いに建て上げ合うということです。今からそのことを説明したいと思います。エペソ220-222:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」このところには、教会は建物であり、聖なる宮であると書かれています。宮というのは神殿です。かつて、主はソロモンが建てた神殿に臨在されました。その後、イエス様の内に住まわれました。その後、どうなったのでしょう?信仰者の中に、聖霊として住まわれるようになりました。しかし、個人だけではありません。Ⅰコリント316「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と複数形で書かれています。つまり、私たちみんなが、神が住まわれる神殿であるということです。でも、エペソ2章には「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」と書かれています。現実的に「建物が成長する」ということはありません。なぜなら、神殿は石でできているからです。でも、その石は生きています。Ⅰペテロ24,5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」ここに「生ける石」と書かれています。生ける石は英語の聖書で、living stoneです。どこかで聞いたことのあることばです。アフリカの宣教師の名前もリビング・ストーンでした。

次に重要なのは「あなたがたもともに建てられ」ということばです。Ⅰペテロ2章は「築き上げられ」ですが、英語ではbe built upとなっています。エペソ人への手紙の「ともに建てられ」は、are being built togetherとなっています。build建てるという動詞の受身形になっています。建物である教会は互いに建てられる存在だということです。しかし、ギリシャ語の「建てる」は、オイコドメオーであり、「建てる」の他に「強化する、向上させる、高める」という意味もあります。ですから、他の箇所には「徳を高める」、英語ではedify というふうに訳されています。Edifyというのは、「啓発する、教導する、強化する」という意味があります。結論的に言いますと、互いに建て上げあうということは、互いに教えたり、励ましたり、指導したりすることも含まれるということです。「徳を高める」というのは、人の良いところを発見して、それを伸ばしてあげるようなニュアンスがあります。逆に、「徳を下げる」というのは、欠点をあげつらい、人を気落ちさせてしまうというニュアンスがあります。良い指導者というのは、人の良いところをほめて、それを伸ばしてあげる人だそうです。他人にはそうかもしれませんが、子どもや身内には、結構きびしいところがあるのではないでしょうか?でも、教会は互いに励まして、徳を高め合うところだということを忘れてはいけません。

ところで、エペソ4章には建築を指導する人たちのことが記されています。エペソ411,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。彼ら5人は、聖徒たちを整えて、キリストのからだを建て上げるための指導者です。そのために「五職の賜物」と呼ばれています。この賜物は聖霊の賜物というよりは、キリストご自身が召してくださった賜物ということができます。ご存じだと思いますが、建築のためには専門家が必要です。昔は石をどこからか集めてきて、加工して、それを積み上げて作りました。インドネシアのエディ・レオ牧師は「5つの働きがなければ、神の家を建てることができない」と言われました。第一の働きは材料を見つけなければなりません。伝道者はどこからか石を見つけて運んでくる人です。これは伝道の働きです。また、伝道者は自分でも伝道をしますが、「あなたも互いに伝道しなさい」と勧めます。第二の働きはふぞろいな石を適当なかたちに加工する必要があります。大きなハンマーやノミをもちいて、砕いたり削ったりします。これは教師の働きです。また、教師は自分でも教えますが、「あなたも互いに教え合いなさい」と指導します。第三の働きは石を正しい場所に置くことです。石と石がきっちり合わさる必要があります。これは人々を世話をしたり、養育する牧師の働きです。牧師は自分でも牧会しますが、「あなたも互いに牧会するように」と勧めます。第四は家が設計図どおり建てられているだうかとチェックする人、コンサルタントが必要です。この人は預言者です。この人は自分でも預言しますが、「あなたも互いに預言し合いなさい」と指導します。第五は施主である神さまから設計図や工事の内訳をいただく人です。設計図とは教会の永遠の目的です。使徒は自分も永遠の目的に目をとめて進みますが、「あなたも互いに永遠の目的に目をとめて進みなさい」と指導します。

残念ながら、今日の教会では使徒と預言者が不在です。だから、教会がなすべき永遠の目的が何かを知りません。神からの設計図もそれをチェックするコンサルタントもいません。ただ、自分たちの教団や教会を大きくしようとやみくもに働いています。だから、神さまが住めるような神殿になっていないのです。神さまがお住みなられる神殿の至聖所は正六面体、立方体です。立て、横、幅、奥行きがみな同じ長さです。地域教会はいわば1個の立方体です。地域教会があわさったものが、ユニバーサル・チャーチ(普遍的教会)です。黙示録21章には、聖なるエルサレムが描かれています。都そのものが巨大な神殿になっています。都の土台も城壁も高価な宝石で飾ら得ています。都は四角で、その長さと幅も同じで、それぞれが12000スタディオンです。長さも幅も同じです。将来、私たちの教会がその中に組み込まれるのです。教会が神の家族であるというとき、私たちは互いに愛し合う存在だということです。教会がキリストのからだであるというとき、私たちは互いに仕え合う存在だということです。教会が聖霊の宮であるというとき、私たちが互いに建て上げ合う存在だということです。教会には三位一体の神さまがおられます。

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2019年9月 7日 (土)

ベテルの教会 創世記28:10-19 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.9.8

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 ヤコブは父と兄をだまして、長子の権利を得ました。もう、家にいられないので、母リベカの勧めで、おじのラバンのところに出かけました。しかし、その途中で日が暮れて、ヤコブは野宿することになりました。何もない寂しい荒野で、石をまくらにして横になりました。すると、ヤコブは夢を見ました。なんと、天からはしごが降りて来て、神の御使いたちが上り下りしているではありませんか。主は「私はあなたと共にいる。あなたの子孫にこの地を与える」と約束されました。ヤコブは目がさめて「主がこの所におられるのに、私は知らなかった。ここは神の家である。ここは天の門だ」と言いました。このところに出てくる「神の家」「はしご」「天の門」の3つのことばは、キリストの教会を象徴しています。これから、1つずつを学びたいと思います。

1.神の家

 最初に考えたいのは「神の家」とは何かということです。2箇所お読みしたいと思います。創世記28:17 「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」、創世記28:19「そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。」17節に「神の家」と書かれています。家はヘブル語でバイートであり「家、場所、家族、容器」という意味です。19節でヤコブは「ベテル」と呼びました。ベテルは、「バイート」という「家」と「エル」という「神」が合わさってできたことばです。本来、その場所はルズでしたが、ヤコブが「ベテル(神の家)」と名付けたということです。しかし、神の家と言っても、一本の柱も軒下もありませんでした。そこには、主なる神とヤコブだけがいました。ヤコブは眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言いました(16節)。ということは、「神の家」とは「神さまがおられる場所」という意味になります。キリスト教会では神さまがおられる場所を「神の臨在がある」と言います。これまでの話をまとめると、「神の家」とは、神がおられるところ、「神の臨在」ということになります。ビル・ジョンソンは本の中でこう述べています。「おそらく彼はその夢の意味が何のことかわからずに困惑したでしょうし、私たちの知る限り、その預言的な夢の答えは見つかりませんでした。おそらく彼は一生そのことに戸惑いを覚えたに違いありません。その答えは何百年もたってから、人となられたイエス様を通して現れました。イエス様がその預言を初めて成就されました。」アーメン。

 ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「住まわれた」の原文のギリシャ語は「天幕を張る、天幕に住む」という意味です。つまり、イエス様は人間の肉体という天幕に一時的に住んだということです。言いかえると、イエス様は肉体を持った神の家、神の住まわれるところとなったということです。このことは、創世記28章に描かれた預言の最初の成就でした。そのことを証明するみことばが、ナタナエルとの会話の中にあります。ヨハネ150,51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」このところの描写は、ヤコブが見た天のはしごのことです。今度は、神の家であられるイエス様の上を神の御使いたちが上り下りするということです。「はしご」のことは、次のポイントで詳しくお話しいたします。イエス様が、神がおられる「神の家」であったということです。

 しかし、それだけではありません。ヨハネ14章でイエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ1417「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」その方、つまり「聖霊があなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるようになる」とイエス様は約束されました。このことがペンテコステの日に成就し、イエス様を信じる者の内側に、神である聖霊が住むようになったのです。Ⅰコリント3章には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント316と書かれています。さらに、エペソ2章には「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ221,22)。私たち個人の中に住み、私たちの間に神が臨在してくださるのは、神の永遠の計画であったのです。ハレルヤ!私たちこそが神の家なのです。

 でも、ヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」(創世記2816と言いました。そのことは、私たちは「神の家」の前にいながら、それを全く知らないということがあり得るということです。神の家とは神の臨在です。私たちの間に神さまがおられる、それが教会です。ビル・ジョンソンは「私は教会の礼拝や集会において、神が一人の人物の人生をドラマチックに完全に変えてしまわれる時を見てきました。ところがその人の隣に座った人は、神が同じ部屋におられることさえも気がつかないのです。彼らは家に帰ったら何を食べようかと考えているのです。一方、1メートル離れていない所にいる別の人たちは、霊的大改革を受けているのです。しかし、同じ部屋にいながら何も気づかずにいた人たちが多くいました。彼らは夢を見る前のヤコブのようでした。神がそのところにおられるのに、それがわからなかったのです。」と言っています。私たちはこのように礼拝をささげているとき、神の臨在を体験します。「ああ、神さまが栄光のうちにいらっしゃる」ということを感じないでしょうか?複数のクリスチャンが教会という建物に集まっています。でも、教会は建物ではなく、私たち自身のことです。私たちが教会であり、神の家なのです。私たちが主をあがめているとき、当然、神さまはここに臨在してくださいます。ただ臨在されるだけではなく、私たちを祝福し、癒し、救って下さいます。

2.天のはしご

 創世記28:12 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」もう一箇所、引用します。ヨハネ1:50-51「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。』そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』」前半は、ヤコブが夢で見た天よりのはしごです。後半は、イエス様がナタナエルに語られた預言です。共通しているのは、神の御使いたちが上り下りしていることです。違うのは、創世記はヤコブがいた場所「神の家」に天からはしごが地に向けて立てられています。そして、ヨハネ1章では、はしごとは書かれていませんが、人の子であるイエス様の上に、神の御使いたちが上り下りするということです。しかも、そこには「天が開けて」ということがはっきり記されています。さて、この二つの箇所が教会の要素を象徴しているというのなら、それは、どんなことなのでしょうか?

 第一のポイントで申しあげましたが、ヤコブがいたところは神の家です。なぜなら、そこに神がおられたからです。そして、ヨハネ1章で言われている人の子は、イエス様です。イエス様は神がおられる「神の家」でした。さらに、教会は聖徒たちによって構成される「神の家」です。私たちの中に神さまが臨在してくださっているからです。問題は、御使い(天使)が上り下りするという天よりの「はしご」です。その前に、「神の御使いは何のために遣わされているのか」ということを考えたいと思います。ヘブル1:7 「また御使いについては、『神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。』と言われましたが」とあります。さらに、ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。つまり、御使い(天使)は、神さまから、神の子クリスチャンに仕えるために遣わされた霊的な存在であるということです。旧約聖書では、穴に投げ込まれたダニエルがライオンに食べられないように助けてくれました。イエス様が誕生する前後は、マリヤやヨセフに現れてくださいました。マルコ1章には「御使いたちがイエスに仕えていた」と書かれています。ペテロが牢に捕えられ、明日は処刑されるというところを主の御使いが助け出してくれました。また、パウロを乗せた船が地中海で遭難したとき、御使いが現れて励ましてくれました。このように聖書には御使いの存在、御使いの働きがはっきりと記されています。しかし、残念ながら、今日の教会では、御使いのことをさっぱり言わないし、期待もしません。そのことは、あとでお話ししますが、御使いは神から私たちを助けるために遣わされた霊的存在です。でも、はっきりしなければならないのは、御使いは私たちの願いや命令はきかないということです。このところに「風」と書かれているので、自由にならないという感じがします。御使いは父なる神さまの命令だけを受けて、命令があるときはじめて、私たちのところに遣わされるのです。つまり、私たちと御使いとの間には経路がなく、父なる神さまを介してであることを忘れてはいけません。私たち人間は、御使いを拝んだり、神のように礼拝してもいけません。

 その次に問題になるのが、天よりのはしごのことです。私たちははしごを日常的にも見ることがあります。ヤコブは天からはしごが降りて来て、そこを御使いたちが上り下りしているのを見ました。それは、どういう意味でしょうか?ビル・ジョンソンは「上るとは役目を果たした御使いであり、下るといういのは神の使命を果たすため地上に降りることである」と言っています。すばらしい解釈です。ヨハネ1章で、ナタナエルにイエス様が「天から上り下りするのを、あなたは見る」と言われました。つまり、それはイエス様にあって成就されたということです。しかも、イエス様の場合は「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」(ヨハネ151と言われました。ヤコブの見たのは夢であり、幻でした。しかし、イエス様の場合は幻ではなく、「天が開けて、御使いが上り下りする」のをはっきり見ることができるということです。では、いつから天が開けたのでしょうか?マタイ316 「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様がバプテスマを受けた直後、天が開け、神の御霊が鳩のように下って来られました。おそらく、イエス様以外に、見た人がいるのではないでしょうか?少なくとも、バプテスマのヨハネは見たのではないかと思います。だから、聖書に客観的に書いてあります。重要なのは、イエス様が公生涯を始めたときから、天が開け、神の国がこの地を侵略し始めたと考えるべきです。

神の御使いは私たちが命令しても動きません。御使いは神さまからの命令だけに従います。私たちがすべきことは神さまに祈る(願う)ことです。私たちの祈りが香のように神さまの御前に立ち上るなら、神さまから御使いに命令が下り、私たちのところに遣わされます。ビル・ジョンソンはこのように述べています。「ただし、御使いは私たちが奇跡を来なうために冒険、リスクを犯しているときでないと働きません。私たちは御使い(はしご)を暇にさせています。あまりにも安全に暮らしているので、天から下る必要を与えていないのです。神の家についてもう一つ大切なことは、それが開かれた天の下で機能するということです。つまり、悪霊の領域が打ち破られ、神の領域と地上で起っていることの間が透明になっている時です。それはヤコブの夢の中では御使いが上り下りするためのはしごとして描かれました。御使いは任務を果たすと上に昇り、超自然的な仕事をするときには、下って来るのです。しかし、残念ながら、あまりにも長い間、はしごが使われていません。私たちが超自然的な分野に足をふみ入れていないために、行ったり来たりする御使いがいないのです。それが私たちの問題です。」アーメン。

 神の家である教会、私たちの上に天からのはしごがかけられるのを期待すべきです。私たちは神さまに「あなたのみわざがこの地になされるように」と熱く祈るべきです。祈りが香のように神のみもとに上ったなら、御使いを送って下さり、超自然的なことを行って下さるでしょう。

3.天の門

 創世記28:17「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」教会を表す3つ目の概念は「天の門」です。門はヘブル語で「シャヤル」ですが、「gate門」「entrance入口」「forum裁判や取引を行う、都市の中央にある大広場」という意味があります。聖書中「門」を指す原語は、370回以上の用例があります。外敵の侵入を防ぐ城壁のある町は、住民の出入りのために門を必要とします。その数は必ずしも多くなく、旧エリコには実質上、門は1つだけでした。防衛のため近くにやぐらが設けられ、見張りが置かれ、開く扉はしばしば「かんぬき」で補強されました。もし、「神の家」すなわち「教会」が「天の門」であるとしたなら、どういう意味になるでしょうか?教会は、この世と神の国の間に存在する、gateway出入口ということにはならないでしょうか?ビル・ジョンソンは「私たち教会が門であると言う時、神の主権の現実がすべての人間に開放される場所、神の世界がこの世界に侵入するところであることを指しているのです」と言いました。かなり前に、北朝鮮のキム書記長と韓国の大統領が国境付近で互いに合いました。両国の間に、小さな建物があり、そこが通路になっていました。そこだけが、両国を行き来できる門のような存在でした。門はとても重要なところで、そこに防備のための力が集結していることがわかります。もし、町の門が破られたなら、敵が侵入してくるからです。でも、町の門は商売とか物資の移動のために使われます。町の門がずっと閉じられたままということはないでしょう。門は開けたり、閉じたりして、人々や物や動物が行き来する出入口であります。

 イエス様がマタイ16章と18章で「門」のことを話されました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」ここには「ハデスの門」とありますが、教会という門に対抗するものとして言われています。その後に、「つないだり、解いたりする」天の御国のかぎのことが言われています。同じようなみことばが、マタイ18章にも記されています。マタイ18:18 「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」であり、「くくる、鎖につなぐ、縛る」という意味です。また「解く」はギリシャ語で「ルオウ」であり「解く、ほどく、釈放する」という意味です。天の御国のかぎは、私たちが考えるような棒状のものではなく、「縛ったり、ほどいたりして開け閉めをする」ということでしょう。でも、天の門の鍵の形状がどうの、こうのと言うのではありません。神の家である教会は、天の門のような、神からの権威を授かっているということです。つまり、神の国とこの地を結ぶ重要な出入口なんだということです。これを救いのこととして考えるならどうでしょう?私たち教会が「あなたの罪は赦されました」と洗礼を授けるなら、その人は救われて、天の御国に入ることができるということです。しかし、これが行き過ぎると、「破門」とか言って、カトリック教会がやった権威の乱用です。パウロはⅡコリントで「私たちは和解をもたらすキリストの使節(大使)です」と言いました。私たちは天国行きのパスポートとビザを発行できるのです。しかし、それだけではありません。天の御国をこの地にもたらすために、神の権威を行使できるということです。それは病の癒し、悪霊の追い出し、そしてサタンのわざを縛るということです。イエス様が「地獄の門も打ち勝ちません」と言われました。これは、私たちは守る側ではなく、攻撃する側だということです。地上をめぐるどんな領地、または「門」を備えた支配と権力も私たちに打ち勝つことはできないのです。私たちは前進し、勝ち続けることができるのです。そして最後には、地獄の門もそれに打ち勝つことはないとイエス様は約束されています。

 ビル・ジョンソンは『奇跡への入口』という本で興味深いことを述べています。ところで、地獄の門は正確にはどこにあるのでしょうか?悪魔はどこに力ある座を設けているのでしょう。イエス様はご自分がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されると弟子たちに言われました。するとペテロが、「そんなことが、あなたに起るはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は振り向いて「下がれ、サタン、あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。イエス様は「ペテロ、お前は悪魔崇拝者だ」と言われませんでした。「あなたの心は人のことで満ちている」と言われたのです。忘れてならない最も大切なことは、悪魔は人間の同意によって力を得るということです。そのような心の状態が、悪魔に破壊を持ち込ませる門となるのです。「私は人間に過ぎません」と言うことは、「私は悪魔的でしかありません」と言うことと同じです。キリストを中心としないヒューマニズムは、根本的には悪魔的なのです。あなたが神である聖霊を授かった時から「私は人間に過ぎません」と主張する特権を失います。あなたはそれより遥かにすばらしいのです。私たちが敵に同意するときは、いつでも地獄の門は私たちの心の中にあります。人間中心の見方や、神を知らず、生まれながらの知恵に同意するときはいつでも敵に力を与えているのです。ですから、私たちの目標は、いつでも天の御国に同意することです。私たちの心を、神の任務についている御使いたちが自由に上り下りする天の門にするのです。私たちは天の御国の領域が、この地に自由に侵入するための入口に立つ人々になるべきです。アーメン。

 今日は、教会を象徴する3つのことを学びました。教会が「神の家である」とは、神さまが私たちのところにおられる臨在されるということです。教会が「天のはしごである」とは、私たちが神さまに祈り求めると、御使いがそのとおり働いてくれるということです。教会が「天の門である」とは、この地に御国をもたらすことの権威が、神から与えられているということです。私たちは思いを変える必要があります。イエス様を信じて、死んだら天国に行くだけではありません。この地上に、私たちを通して、御国が来るように願いつつ、生きることなのです。

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2019年8月30日 (金)

遣わされた者 ヨハネ17:14-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.9.1

 きょうの聖書箇所は、「イエスの大祭司としての祈り」と言われています。十字架に捕えられる前、イエス様が父なる神さまに祈っておれます。しかし、この祈りは、弟子たちに対する「告別説教」の直後に祈られたものです。これだけイエス様の祈りが詳しく書かれているのですから、少なくとも弟子のヨハネが聞いていたに違いありません。また、イエス様の祈りの内容は、私たちクリスチャンがどのような存在であるかを明確に教えている箇所でもあります。

1.この世のものでない

 クリスチャンはこの世のものではないということです。ヨハネ1714-16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」文脈的にはこの祈りは、弟子たちに対する、父なる神さまへのとりなしの祈りになっています。つまり、弟子たちがどういう存在なのかということが、この祈りの中に現されています。ヨハネによる福音書に出てくる「世」あるいは「この世」といのは特別な意味があります。ギリシャ語はコスモス「世界」でありますが、ここでは「神にそむき敵するものとしての世」という意味です。この世の君は、悪魔でありサタンです。罪の中にある人類は、すべて悪魔のとりこ、持ち物になっているという理解です。パウロは私たちの救いのことをこう述べています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」私たちクリスチャンは、罪が赦されただけではなく、サタンの支配から神の支配のもとに移された存在だということです。

 イエス様は「この世のもの」とか「この世のものではない」と祈っていますが、これはどういう意味でしょう?英語の詳訳聖書はnot belong to the world「この世に属していない」と訳しています。もちろん、以前は、この世に属し、この世のものでありました。でも、今はそうではないということです。しかし、生まれつきの人間は、生まれたときからこの世に属し、この世の中で生きています。両親や学校の先生から、いろんなかたちで「人生とはこういうものなんですよ」と教えられるでしょう。価値観、善悪、知恵、知識、宗教…様々であります。でも、多くの場合、創造主なる神がいない、人間中心の教えであり、この世的な価値観でしょう。まさしく、盲人が盲人の手引きをするということと同じです。ただし、人間は神のかたちに造られた存在なので、堕落しているとはいえ、わずかばかりの光が差し込んでいます。ですから、「人に迷惑をかけてはいけない」とか「人のために役立つ人になりなさい」ぐらいは教えるでしょう。でも、そこには絶対的なものはなく、全て相対的であり、人によって、民族によって全く異なります。

でも、ヨハネが言う「この世のもの」というのはもっと深い意味があります。それは先ほども言いましたが、悪魔の所有物であるということです。また、もっというと、神から離れた人たちはすべて悪魔的であるということです。なぜなら、まことの神ではなく、悪魔からすべての力を得ているからです。イエス様が弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って、長老や祭司長たちから苦しみを受け、殺される」と告げました。するとペテロが「そんなことが、あなたに起るはずはありません」とイエス様をいさめました。すると、イエス様は「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。ペテロは悪魔崇拝者ではありませんでした。ただ、イエス様のことを心配して、人間的な配慮で言っただけです。でも、イエス様は「下がれ、サタン」とペテロを叱りました。ペテロがサタンだったというわけではなく、ペテロはサタンが入れた思いを語ったということです。でも、ペテロのヒューマニズムはこの世の考えであり、イコール、サタンの考えであったということです。本来、この世においては中立などありません。悪魔のものか、あるいは神のものか、であります。多くの人は目隠しをされ、ごまかされて、サタンの持ち物として生きているだけです。

ですから、私たちはイエス様を信じることによって、サタンの所有物から、神の所有物になる必要があります。私たちは、以前は、サタンに属し、サタンの思いの中で生きていました。しかし、キリストを信じて、神の国に移されると、今度は神に属し、神の思いの中で生きるようになるということです。また、以前は、サタンから力と知恵をいただいていました。しかし、今は神さまから力と知恵をいただく存在だということです。これが、この世ではなく、神に属しているということです。イエス様は「私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものでありません」と言われました。その証拠に、この世はイエス様を憎み、迫害しました。すると、この世のものでない私たちも、この世から憎まれ、迫害されるということです。もし、キリストを信じていて、この世の中で気持ちの良い生活をしているのなら、信仰的に妥協している人です。詩篇3419「正しい者の悩みは多い、しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」。Ⅱテモテ312「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とあります。私たちはもう以前の私たちではないのです。もう、以前と同じような生き方はできないのです。たとえば、トンボの幼虫はヤゴと言いますが、泥の中を貼って生きています。しかし、さなぎから変えるとどうでしょう?天空を舞って生活します。蝶々も幼虫の時は葉っぱの上を貼って生きています。とても醜い姿をしています。しかし、さなぎから変えるとどうでしょう?天空を舞って生活します。もう、葉っぱを食べたりしません。食べ物まで違っています。自分がだれかということを正しく知るならば、自分の生活や行いが後からついてきます。あるクリスチャンは、罪は赦され、天国に行けると思っていますが、この世の人たちと全く変わらない生活をしています。私たちは以前はこの世に属し、悪魔の所有物でした。しかし、今はキリストによって贖われ、神のものとなりました。私たちは、まことの神さまから力と知恵と必要をいただいて生活します。人間中心という中途半端な生きかたではなく、神に属する者として神中心の生き方をしましょう。

2.聖別してください

 ヨハネ17:16,17「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」、ヨハネ171920「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」このところに、「聖め別つ」ということばが、何度か出てきます。口語訳聖書は「聖別」と書かれています。ギリシャ語はハギヤゾウであり、もともとは宗教・祭儀的に「清くする、聖なるものにする」という意味です。祭司が動物を神さまに捧げるときは、動物を聖別したわけです。しかし、人物においても、「神に献げた」という意味で「聖別」と言うようになりました。ですから、「聖い」とか、「聖別」というもともとの意味は、道徳的な意味はなかったということです。私たちは「この人は清められている」とか、「清められていない」と言います。もちろん、そういう言い方も可能であります。私も神学生のとき、喫茶店の伝道に遣わされました。私がその時、証をするように言われていました。女性の先輩の神学生が私の隣で祈ってくれました。「どうか、鈴木兄弟の口びるをきよめて下さい。どうか、口びるをきよめて下さい」と何度も祈ってくれました。「これから、証をしようとしているのに、ひこむだろう」と思いました。ですから、私が「聖別」などというテーマを語るのはまことに場違いかもしれません。

 でも、自己弁護でなく申し上げますが、もともと聖別というのは道徳的なきよさ、人格的なきよさをさすものではありません。それはどういう意味かと言うと、「神のものに別たれる」という意味です。私は日本ホーリネス教団の神学校で学びました。小林和夫先生の授業をいくつか学ばせていただいて本当に感謝でした。小林先生は聖別とは、set apart from…「…から分かたれること」とおっしゃっていました。滴礼の洗礼式を行いますが、そのときクリスタルのようなガラスの器を用います。しかし、その器は洗礼式だけにしか使いません。洗礼式が終わってから、そこにサラダを入れたりはしません。もちろん、そういう形のものはサラダをいれるために使用されるでしょう。でも、その器は、洗礼式のために特別に別たれたもの、聖い器だということです。もし、神さまから「あなたは私のものですから、この働きをしなさい」と言われたらどうでしょう?「わかりした。私の能力とこの時間をあなたにささげます」と答えるでしょう。たとえば、この礼拝で、奏楽の奉仕や賛美の奉仕があります。お花や受付、送迎などの奉仕もあります。これは神さまのために、自分を聖別しているということになります。牧師の説教だけが、聖別された奉仕だということは全くありません。また、この世の仕事がみな世俗的な仕事だということでもありません。マルチン・ルターは「ベルーフ(天職)」ということを言いました。当時は、神さまに直接仕えている人たちが聖人であり、聖なる仕事をしていると思われていました。しかし、ルターは神さまから召された仕事であれば何であれ、それはベルーフ(天職)なんだと言いました。つまり、神さまの御目から見たら、聖い仕事とか、聖くない仕事というものはないということです。

 みことばに戻りますが、なぜ、イエス様は弟子たちを聖別するとおっしゃったのでしょうか?さらに、19,20節では「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」とおっしゃっています。旧約時代は、祭司は動物のいけにえをささげる前に自分自身を聖別しました。大祭司アロンも、他の祭司たちも、血をふりかけて自分たちをきよめました。イエス様はヘブル書で「まことの大祭司」と言われています。しかし、ここでは弟子たちに血をふりかけるのではなく、「ことばによって」と言われています。ことばと言うのは、真理です。つまり、弟子たちは真理によって聖め別たれた存在であるということです。なぜなら、これから真理のことばを伝える者として遣わされるからです。第三のポイントは「遣わされる」でありますが、その前にどうしても聖別される必要があるんだということです。聖別されないままで、この世に派遣されるとどうなるでしょう?ミイラ取りがミイラになります。この世の罪と汚れにそまって、自分の使命も、自分がだれも分からなくなるでしょう。ですから、神から派遣される前には、どうしても「あなたは神のものです。神から特別に選び別たれた存在です」とお墨付きをいただく必要があるということです。

 もう1つ聖別は聖化の問題で、救われた人がだんだん聖くなるということです。私たちは救われた瞬間、神の子どもとしての身分をいだだきます。また、法的には罪赦され、義と認められます。でも、実質はどうかということです。聖化、聖められるとは、人格的に神の子どもらしくなるということです。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。他に謙遜とか、忍耐、敬虔、さまざまな徳があります。つまり、イエス様につながることによって、人格的に変えられて行くということです。でも、順番的には、自分は神さまから聖別されている、聖い存在と思われているという認識が必要です。使徒パウロもコリントの人たちに「あなたがたは聖徒として召され、キリストにあって聖なるものとされている」と言っています。実際、コリントの人たちは、救われてはいましたが、この世の罪にまみれていました。でも、パウロはキリストの恵みによって、「聖徒」「聖なるもの」と見ています。コリントの人たちは、そのことばに励まされて、「あなたがそのように見ているのでしたら、そうさせていただきます」と答えたのです。私が中学、高校生のときに悪いことをして、何人かの先生方から怒られました。でも、その顔がまるで犯罪者を見ているかのようでした。それだったら、卑屈になって、立ち直ることは困難です。でも、父なる神さまは、あの放蕩息子のように、いつでも無条件で私たちを愛して、受け入れてくださいます。でも、その根拠は、御子イエス様が私たちのために尊い血をもって贖ってくださったからです。言いかえると、神のものとして聖別してくださったからです。私たちは聖い者と認められているので、聖い生活をしたくなるのです。

 

3.世に遣わしました

 ヨハネ1718「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」「遣わした」ということばが、21節、23節、25節にも出てきます。つまりこれは、父なる神が御子イエスさまをこの世に遣わしたように、弟子たちをもこの世に遣わすということです。「遣わす」というギリシャ語は、アポステロウであり、「使徒」のもとのことばです。ヨハネ福音書では弟子たちを「使徒」とは呼んでいませんが、ルカ6章には「12人を選び、彼らに使徒という名を付けられた」と書いてあります。弟子たちは主から派遣された「使徒」でありました。実は、弟子たちが派遣されたのはこのときだけではありません。この前も、また復活して昇天する直前も派遣しています。しかし、共通しているのは、弟子たちを派遣するときは、決して手ぶらではないということです。マタイ101「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。悪霊を追い出したり、病を癒す権威と力を与えておられます。ルカ福音書には別に70人を派遣しています。ルカ1019「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」このところにも、権威を授けたと書いてあります。きわめつけはマタイ28章です。マタイ2818,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」。つまり、イエス様が弟子たちを遣わすときは、いつでも権威と力が授けられていたということです。彼らは、遣わされてどうしたのでしょう?イエス様と同じ働きをしました。福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、時には死人さえよみがえらせました。

 しかし、重要なのは「あなたがたを世に遣わす」という命令は、弟子たちだけではありません。これはイエス様を信じた私たちに向けて語られていることばでもあります。もし、マタイ28章をはじめ、弟子たちに命じたことが、福音書の弟子たちだけだとしたら、聖書を読む必要はありません。聖書を棚に飾っておけば良いのです。でも、私たちは聖書を神のことばと信じています。でも、多くの場合、「私は罪赦されて天国に行ける。私は救われている」で終わってしまいます。そうではありません。私たちはイエス様がそうであったように、神さまのもとから、この世に派遣されている存在であることを忘れてはいけません。キリスト教会の初期のころは、この世があまりにも汚れているので、修道院をつくり、そこで生活をしていました。トルコのカパドキアに洞穴がたくさんあり、世界遺産になっています。私たちクリスチャンは、「隠遁者」とか「世捨て人」ではありません。私たちは神さまから命を帯びて、この世に遣わされている存在です。この礼拝が終わって、みなさんは家に帰るのではありません。「ああ、やっと礼拝終わった、家に帰ろう!きょうの話長かった」ではありません。家に遣わされるのです。あるいは、会社に遣わされるのです。私が座間キリスト教会で働いていた頃、日本キリスト教団の深沢教会に見学に行きました。深沢教会の近くには国立競技場や日本体育大学がありました。体育会系の方がたくさん来ている教会でした。そこの牧師は軍隊上がりで、とても厳しい方でした。なんと、朝6時からの早天祈祷会に70人くらい毎朝、出席していました。聖歌の持ち方も斜め45度にぴしっと揃って大声で賛美していました。最後に牧師が祈るのですが、彼らは一斉に「行って来ます!」と大声で答えていました。今思えば、危ないカルト系の教会だったかと思います。だけど、「行って来ます!」というのは、正しいかなと思いました。私たちは礼拝でみことばをいただき、神さまを礼拝します。祝祷があり、報告があり、礼拝が終わります。でも、家に帰るのではありません。神さまのもとからこの世に派遣されていくのです。アーメン。でも、手ぶらではありません。そのとき、神さまから権威を力という油そそぎをいただくのです。そうすれば、この世の悪魔にやられることはありません。ぼーっとして帰るので、家で待っている未信者の家族にやられるのです。そうではなく、権威と力を帯びて、神さまから遣わされて行くのです。

 創世記にソドムとゴモラの町に住んでいたロトのことが記されています。Ⅱペテロ2章には「この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きし、日々その正しい心を痛めていた」と書かれています。確かにロトは義人でした。でも、ロトとその家族は、ソドムとゴモラの町の中に住んでいました。この世の者でないのに、本当の姿を現していませんでした。聖別とか派遣されているという考えはなく、彼らの罪と汚れに悩まされて生きていました。娘二人もその町の人と結婚するつもりでした。ロトの妻もその町で得た宝を家の中に蓄えていました。やがて、二人の御使いが現れ、「主がこの町を滅ぼそうとしておられるので、立ってこの場所から行きなさい」と言いました。しかし、彼の婿たちは、それを冗談のように思いました。ロトはためらいました。しかし、御使いたちは3人の手を掴んで、連れ出し、町の外に置きました。「いのちがけで逃げなさい。後ろを振り返るな、立ち止まってもいけない」と命じました。ロトは「あそこには遠くて行けない」と言うし、ロトの妻は後ろを振り返り塩の柱になりました。私たちはロトの家族から大きな教訓を得ることができます。私たちはこの世に住んでいますが、この世のものではありません。しかし、この世の中で生活していますので、心の中にこの世が入ってきているかもしれません。頭では私は神のものであり、聖徒であると知っています。でも、「そうは言ってもなー」と言い訳して、この世に流されているかもしれません。ロトは心を痛めてはいましたが、ソドムとゴモラから離れようとは思いませんでした。それは、ロトの妻も娘たちも同じです。ソドムとゴモラは天から下ってきた硫黄の火によって滅ぼされました。聖書には「この世は滅びる」と書いてあります。私たちはこの世のものではありません。私たちはこの世と一緒に滅びる運命ではありません。私たちは御国に属する者、キリストに属する者です。この世は仮住まいで、あちらが永遠の住まいです。私たちがこの世でまだ生きているのは、使命があるからです。神さまから、権威と力を帯びて、この世に遣わされていることを忘れないようにしましょう。

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2019年8月23日 (金)

宗教改革の教会 ヨハネ黙示録3:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.25

 サルデスにある教会は、16世紀の宗教改革時代の教会の姿を現していると言われています。堕落していた教会の中にも残りの民がいて、宗教改革がなされたのです。でも、みことばには「あなたの行いが、私の神の御前に全うされたとは見ていない」と書いてあります。つまりは、宗教改革は不完全であったことが暗示されています。前半は歴史的な視野から宗教改革時代の教会について、後半は、聖書のみことばから語りたいと思います。 

1.歴史における宗教改革の教会

 前回もそうでしたが、多くは『一冊でわかるキリスト教史』(日本キリスト教団出版局)から引用させていただきました。このことを断っておかないと、後でクレームを付けられるのが嫌だからです。私も教会史をかなり勉強した方ですが、15分間で宗教改革史を語るのは無理があります。そのため、だれかが書いた本から借用して語るのが良いと考えました。もっと学びたい人はこの本を買って自分で読んでください。宗教改革が起こる時代背景からまずお話しいたします。ローマ教皇を選ぶ際には、イタリアとフランスが何度も衝突しました。フランス側が教皇クレメンスを選び、アヴィニョンに教皇庁を70年間も移しました(教皇のバビロン捕囚)。その後、教皇庁をローマに戻そうとする動きが起こりましたが、結果的に3名の教皇が立つ、大分裂(大シスマ)が起こりました。教会はいよいよ末期的な状況に陥りました。教会の斜陽時代に堂々と教皇や教会に対する批判運動を展開したのは、ジョン・ウィクリフとヤン・フスです。ウィクリフは教皇の首位性を含む聖職位階制や聖変化(化体説)は聖書にそぐわないと批判しました。彼は聖書に立ち返ることを説き、はじめてラテン語の聖書を英語に翻訳しました。一方、ヤン・フスは高位聖職者批判の主張を取り下げなかったので、聖職をはく奪され、火刑に処せられました。また、その頃のドイツの教皇庁は高圧的に教会税を取り立て、腐敗していると考えられていました。いたるところで修道院の改革が叫ばれ、その広大な所有地は、貴族たちや、そこで生活していた農民たちのねたみの種でした。一般に農民たちは不安定な経済状態にあり、聖職者達によって徴収される十分の一税や諸料金は、彼らの苦情の主要な原因となっていました。その頃、ヨーロッパではフランスとイングランドと100年戦争がありました。また、ペストの大流行と農民反乱の影響により、社会不安が増大しました。中世後期はとても暗い時代でありました。

 ドイツの宗教改革はマルチン・ルターによって起こりました。ルターは14831110日アイスレーベンで生まれました。1501年にエルフルト大学に入学し、父の希望で法学の専門の勉強の準備を始めねばなりませんでした。しかし、1505年、ルターは突然の友人の死と、雷雨に打たれて危うく死にそこなうという2つの体験をしました。その時、心底から揺り動かされ、法律家になることを断念し、自己の魂の救いを切望して、アウグスティヌス修道士会に入会しました。ヴィッテンベルク大学で1509年に神学士号を取得し、副修道院長に任じられました。しかし、厳格な修道生活の努力にもかかわらず、ルターは心の安らぎを見い出すに至らず、自分の罪の深さを考え、打ち沈んでいました。ヴィッテンベルク大学で、詩篇やローマ書、ガラテヤ書から講義をしつつ、「神の義」に悩まされました。しかし、ローマ117から「罪人は神の恵みにより救われるしかない」とする信仰義認を悟るに至りました(塔の経験)。1517年、大学の討論形式として、『95箇条の提題』を呼びかけました。これはローマ教会に批判を突きつけるというものではなく、贖宥符の実践とその根底にある救いの理解に対する批判でした。ローマ教会が贖宥符を購入すれば、煉獄にいる魂の罪が赦され天国に入れると呼びかけていたからです。しかし、そのことが教皇や教会の神学論争へと展開しました。1520年、ルターは3つの改革文書を著し、信仰義認論に基づき、ローマ教会の制度や実践を批判し、それに代わる新しい教会やキリスト教的生活の在り方を示しました。強調されたのは「万人祭司論」「聖書のみ」です。15201月、ルターは破門され、4月にヴォルムスの帝国会議へ召喚されました。ルターは「我、ここに立つ」と良心と神のことばで撤回に応じませんでした。その帰り、身の危険を案じたザクセン選帝候によって城にかくまわれ、10か月の滞在中に新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年出版しました。その間にルターは多くの支持者を得ました。名もない修道士の問題提起が大きな改革運動へ展開したのです。しかし、ルターは農民戦争の際、世俗権力への服従を訴えたので改革の火が消えてきました。メランヒトンがルターの思想を体系化し、「アウグスブルク信条」を執筆しました。

 スイスの宗教改革はドイツに始まった宗教改革の影響によって起こりました。16世紀はじめ、スイスは13邦からなる同盟国で、神聖ローマ帝国から事実上、独立したばかりでした。市参事会は教会の重要な権限(教会税や結婚に関する裁判権、財産や人事権)を獲得し、聖職者の道徳的堕落や下級祭司の貧困の問題を解決しようとしていました。1518年、市参事会は人本主義的な改革を導入すべく、ツヴィングリを大聖堂の司祭に任命しました。ツヴィングリは「67箇条」を作成し、キリストに一致しない教会の制度や慣習(教皇、聖職位階制、ミサ、良い行い、聖職者の独身性など)を退けました。市参事会は聖書に基づいた説教を課し、聖像や聖遺物、オルガンを撤去しました。さらに修道院を廃止し、その財産をツヴィングリの助言に従って困窮者や病人の救済に用いました。ミサを廃止し、聖餐を導入し、説教を中心とするドイツ語の礼拝を始めました。しかし、ツヴィングリはルターと聖餐論のことで対立してしまいました。ツヴィングリは、カトリック教会連合と従軍し、1531年戦死しました。その後、立てられたのが、ジョン・カルヴァンです。カルヴァンは、いわゆる人本主義の影響を受けた法律家でした。改革者ファレルに協力を要請されジュネーブに立ち寄りました。ちょっとのつもりが、牧師に任命されてしまいました。早速、「教会規則」を定め、「聖書注解」を著し、『キリスト教網要』の改定を重ねました。『網要』はカルヴァンの代表作であり、宗教改革神学の優れた体系書です。彼の素晴らしいところは、「神の選び」「神の主権」を強調したことです。彼の神学はオランダやイングランドにも影響を与えました。カルヴァンは教会政治と政治権力を強調しました。なぜなら、この世にあって、人間の回復は部分的に過ぎず、不完全性のゆえに規範が必要であると考えたからです。次第に破門や告訴、刑罰が科せられる制度が整えられていきました。その当時、幼児洗礼に反対する再洗礼派が現れました。幼児洗礼は国教会の存在を支える者であったので、この主張は危険視されました。チューリッヒの市参事会は討論会で彼らの主張を退け、1526年には死刑命令が出されました。このように宗教改革主流派は政治権力と結びつき、体制的教会を形成しました。

 イングランドに宗教改革を導入したのは、国王ヘンリー8世です。彼は後継者問題で、王妃キャサリンとの離婚を望みましたが、教皇に認められませんでした。彼はそれを機に、ローマ教会から独立して自国の教会を設立し、イングランドの主権確立を試みました。ヘンリーはローマの影響を退けるために、ローマ教会への支持を反逆罪と定め、司教は国王自ら任命し、教皇への上訴と上納金を禁止しました。そして国王至上法により、国王を教会の首長とし、否定者は大逆罪法により死刑に処しました。トマス・モアをはじめ、司教や多くの修道士がこれにより処刑されました。さらにこの政策の結果、カトリック諸国からの攻撃の危険が生じたため、ヘンリーは軍事費捻出のためにすべての修道院を閉鎖して、財産を没収しました。また、ルターの神学を取り入れた信仰箇条「10箇条」を定め、聖書主義、サクラメント論、信仰義認を受容しました。国内には聖職者や指導者層など多くの改革支持者が現れ、英訳聖書が許可されました。本格的な改革はエドワードの時代に導入されました。カンタベリー大司教クランマーにより、聖像の撤去や聖餐の導入、聖職者の結婚許可が進められました。また祈祷書がプロテスタント的に改定され、その使用が礼拝統一法により義務付けられました。しかし、これらの改革は、メアリー1世によって中止されました。キャサリンの娘で皇帝カール5世のいとこでもあったメアリーは、一連のカトリック制度を復活させました。教皇の権威とミサを復活させ、使用用語を英語からラテン語に戻し、妻帯聖職者の職務を剥奪しました。そのため、多くのプロテスタントが国外に亡命し、そこで本場の改革を学びました。エリザベス時代になるとメアリー時代に大陸に亡命していた人々が帰国し、徹底的な改革を求めるようになりました。それがピューリタン運動です。彼らは非聖書的な伝統的習慣を排除し、特に聖職者の式服を廃止しようとしました。しかし、彼らの改革案は国教会から認められませんでした。これに対し、エリザベスは全説教者に認可を受けるように要求し、論争的説教を禁止し、規定通りの式服の着用を求めました。これによりピューリタン聖職者の多くはその地位を失いました。ピューリタン運動への弾圧がさらに激しくなり、分離派はアムステルダムに亡命しました。エリザベツに続くジェームズ1世は王権神授説を唱え、「主教なければ国王なし」と宣言しました。厳しい弾圧を受けたピューリタンは「北米メイフラワー号」で北米へ移住しました。

 宗教改革が起った時代背景、ルターによるドイツの宗教改革、ツヴィングリとカルヴァンによるスイスの宗教改革、さらにはヘンリー8世によって始まったイングランドの宗教改革について学びました。あまり霊的でなかったかもしれませんが、神さまは人を用いているということは確かです。当時の教会があまりにも制度的で腐敗していたために、宗教改革が起こりました。

2.サルデスにある教会

 後半は黙示録3章から記されている「サルデスにある教会」について学びたいと思います。サルデスはヘルムス川の流域にあり、トモルス山脈の北に位置しています。と言っても分からないと思いますが、アジアの7つの教会は現在のトルコの西側にあります。サルデスは紀元前6世紀中頃までは、古代リディア王国の首都でした。富裕な都市であり、切り立った岩壁に囲まれているので、難攻不落を誇って安心し切っていました。しかし、ペルシャ軍の兵士が夜ひそかに岸壁の亀裂のところから絶壁を上り、攻め込んでついに陥落させました。黙示録33後半「もし、目をさまさなければ、私は盗人のように来る。あなたには、私がいつあなたのところに決してわからない」とあります。新約聖書の時代、サルデスは小アジアでは最大の都市でした。サルデスの教会は、外見的には活気があり生きているように見えますが、実は死んでいる状態でした。しかし、4節に「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」と書いてあります。神さまは、サルデスの教会に残りの民を置いていてくださったのです。

 サルデスのギリシャ語は「残された者」あるいは「復興」を意味します。この箇所を霊的に解釈すると、サルデスは宗教改革時代の教会を描写しています。確かに、マルチン・ルターの時代に始まった宗教改革は黙示録3章の預言の成就でした。宗教改革は良かったのですが、その中にあるすべてのものは極めて貧弱でした。歴史によれば、その働きは何一つとして完成しませんでした。黙示録32後半「わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」と書いてあります。そういうわけで、主は言われます。黙示録31後半「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」。ウィトネスリーの本から少し引用させていただきます。一方で、多くのものは宗教改革で回復されましたが、他方では、それらの多くは衰退しました。改革の教会、すなわち、プロテスタント教会には、常に回復があり、次に衰退があります。多くの回復、そして多くの衰退が続きます。多くの復興もありますが、その後に堕落があります。プロテスタント教会の歴史は、復興と堕落、回復と衰退の歴史です。そこには、力強くて、適切で、生きている、永久のものは何もありません。ですから、主は改革の教会であるサルデスには満足しておられないのです。

 多くの聖書学者はサルデスの教会が「宗教改革の教会である」とは断言しません。なぜなら、それをすると「未来主義者」というレッテルを貼られるからです。でも、ヨハネが黙示録を書いた当時は、迫害下にあったので、まともなことは言えないので、黙示文学の形式を用いて、象徴や比喩で励ましました。つまり、黙示録を過去のことに閉じ込めではいけません。黙示録には、「7つの封印」「7つのラッパ」「7つの鉢」と出てきますが、「7つの教会」も同じように預言的なものなのです。黙示録の構造は、「7つの教会」を述べた後、主の再臨の約束が出てきます。いよいよ教会が世の終わりに向かっていくことが明らかになります。これまで、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラと4つの教会から時代的に教会を学んできました。本日のサルデスはプロテスタント教会の始まりであり、教会史的に最も華々しい出来事が起こりました。どんな人でも、ルターとかカルヴァンという名前を聞いたことがあるでしょう。でも、人間というものは改革者たちの功績をたたえて、どうしても教会に彼らの名前を付けたがります。今でも、世界にはルターという名前の教会が数えきれないほどあります。また、「カルヴァン教会」はありませんが、彼から「改革派」とか「長老派」なる教会が生まれ、今日に及んでいます。一度は大きく変えましたが、二度目がありません。彼らの功績が偶像になっているのかもしれません。ルター派の牧師の書斎を見たことがありますが、ルター著作集がずらりと並んでいました。また、聖契神学校時代、ある神学生の部屋に入ったらカルヴァンの『キリスト教網要』が所狭し、と並んでいました。私も一冊、買って読んでみましたが、だれかへの手紙形式で「長ったらしいなー」と思いました。もちろん、読む人にとっては価値があると思います。これはあくまでも私の考えなので、ご批判は甘んじてお受けいたします。

 ローマ・カトリックは国際的な教会となり、1つの頭である法王の下で、すべての国々と混合しました。宗教改革の時に、教会は国際的な性格を捨てましたが、堕落して国教会になりました。ルター自身はこれが間違いであることを認めましたが、その政治的な影響があまりにも大きかったため、彼はそれを避けることができませんでした。ルターは主の最も偉大なしもべの一人でした。でも、彼はローマ法王との対決には強かったのですが、王たちの前では弱かったのです。彼も一人の人間ですから、仕方ありません。彼は強硬にカトリックとローマ法王に対決しましたが、ドイツ国王や諸侯には弱かったのです。その証拠に、農民が反乱を起こしたとき、ルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」という痛烈な小冊子を著して非難しました。ドイツ諸侯は農民の反乱鎮圧に本腰を入れることが可能になりました。反乱は恐ろしい流血をもって鎮圧されたのです。ルターの主張に対する共感は、ドイツの低社会層の間で大幅に失われてしまいました。ルターの一般大衆に対する不信も増大し、改革は世俗の諸侯の手に委ねるべきであるという気持ちが強まりました。最終的に、ドイツ王国は国教会を設立しました。そして他の国々も先例にならいました。だから、今日もいたるところに国教会が存在しているのです。デンマークには、国王がデンマークの教会の長です。そして、それはルーテル教会です。同様に、英国では、女王が国教会である英国国教会の長です。

 国教会のどこが悪いのでしょうか?まず、幼児洗礼が義務付けられており、信仰あるなしに関わらず、国教会に属さなければなりません。ということは、教会内にはキリストを信じて新生している人とそうでない人とが混在することになります。さらには、教会の首長がキリストではなく、国王もしくは、スイスのような市参事会になります。霊的なことに関しても、多数決もしくは、王様や諸侯が決めます。とても人間的であり、神さまの御旨を伺うという信仰的な立場は見当たりません。また、教会政治と政治権力が合体するため、宗教的なことで有罪になり、処罰を受けることになります。プロテスタント教会でも、宗教裁判で数えきれない人たちが死刑になりました。プロテスタント教会はローマ教会のような聖職位階制は廃止しましたが、聖職者と平信徒の考えは残りました。国教会が存在するようになると、多くの追求をする人たちはそれらに満足しませんでした。彼らは非国教徒となって、異議を唱えました。たとえば、英国では国教会から弾圧を受けたピューリタンと分離派があります。彼らは祈祷書の使用と式服着用に対して抵抗しました。私的な宗教集会は禁止され、しかも高等宗務官裁判所が設置され、分離派の指導者は処刑されました。女王の首位権の拒否者、国教会出席拒否者、秘密集会出席者は国外追放とされ、分離主義者の多くはアムステルダムへ亡命しました。エリザベスの後のジェームズは「王権神授説」を唱え、ピューリタンに厳しい弾圧を始めました。チャールズ1世よって、宗教的統一政策はますます促進され、宗教的、政治的に絶望したオランダの分離派とピューリタンは北米に移住しました。アメリカに渡ってから英国ではじまった長老派教会やバプテスト派教会が栄えました。ジョン・バニヤンは鋳掛屋を本業とする信徒伝道者でした。しかし、1658年ジョン・バニヤンは免許無しで伝道したかどで起訴されました。最初は禁固3か月となりますが、彼が反抗して伝道を止めなかったので、禁固は12年近く延長されました。出獄後、また伝道したので6か月間投獄されました。その後、彼は『天路歴程』を出版しました。

主の御目から見たら、国教会も長老派教会やバプテスト派教会のような私立教会も貧弱で、死に満ちていました。だから、主は彼らを叱責されました。彼らが教会の正常な状態に完全に戻らなかったので、宗教改革の教会は主の心を満足させることはありませんでした。教会は一回の改革でとどまらず、絶えず悔い改め、妥協せずに信仰的な純粋さを求めていかなければなりません。黙示録34,5「しかし、主は最後にこのような恵みある約束も与えておられます。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」「白い衣」とはどのような意味でしょうか?いのちのことば社による『新聖書注解』にすばらしい解説が載っていました。「スウィートによれば、白い衣は、祝祭の時に、勝利の時に、純潔を表すため、天における身分を表すためなどに用いられている。彼はこれらを全部総合した意味であると考える」とありました。この後、黙示録に白い衣を着た人たちが出てきますが、殉教を乗り越えて勝利した聖徒たちに与えられています。まさしく、白い衣は勝利と栄化の衣、キリストの花嫁の衣です。私たちも信仰を守り通して、その仲間に入りたいと思います。主は私たちの名前を「いのちの書から消すようなことは決してしない」と約束しています。そして、主が私たちの名前を父の御前と御使いたちの前で言い表して下さることを信じます。私たちがこの世で受ける迫害はむしろ、良いことなのです。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ510)。

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2019年8月16日 (金)

新天新地 ヨハネ黙示録21:1-7 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.4

 きょうはキリスト教の救済史の完成形について学びたいと思います。建築ではパースと呼ばれる完成図とか模型があります。人々はそれを見て、「最後はこうなるんだ」と夢を抱くことができるでしょう。聖書にも、「信じた人がこのようなところで暮らすんだ」という完成形があります。それは「新しい天と新しい地」であります。このことばは、イザヤ書65章と66章にも出てきます。私たちは「死んだら天国に行く」と言いますが、天国の完成形が新天新地であります。俗にいう「天国」は、こういうところを指すのです。

1.新天新地にないもの

 ヨハネ黙示録21:4 「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」新天新地にないものは何でしょう?まず、涙です。その次は死です。悲しみ、叫び、苦しみもありません。イエス様はルカ6章で「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」とおっしゃいましたが、「やがて」がこのときです。その理由は、「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書いてあります。ギリシャ語では「以前のもの」とは、「第一のもの」「最初もの」という意味の言葉が用いられています。英語の詳訳聖書はformer orderとなっていますので「以前の秩序」と言う意味です。つまり、この世にあるものが、新天新地においてはないということです。私たちは現在この世に住んでいます。この世は罪と死と悪魔が支配しています。そのため、人間が生きていくうちに、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみが必ず伴います。「なぜ、こんなことが起るのですか?」と人々は叫んで生きています。善人であろうと悪人であろうと、災難が降りかかるのが、この世の常です。でも、新天新地においては、神さまは完全な秩序を与えて下さいます。新天新地では、「戸締り用心、火の用心」という掛け声は必要でありません。悪い人がいないので、鍵をかける必要は全くないからです。よく外出するとき、「車に気を付けて」「知らない人にはついて行かないように」と子どもに注意します。でも、新天新地では神のご支配が私たちを完全に守っていますので安心です。そこでは、アルソックもセコムも必要ありません。

 キリスト教の葬儀のときは、この箇所がよく引用されます。私は、最後の献花のとき、「さようなら」ではなく、「また会いましょう」と再会の約束をするのですと言います。でも、イエス様を信じていないなら再会できません。ですから、遠回しに「あなたもイエス様を信じて天国に行くなら、この人と再会できるのですよ」と勧めているのです。でも、多くの人たちは「そうできたら良いね」という、希望を持つくらいでしょう。葬儀は福音を語る最も、すばらしい機会です。なぜなら、そこにご遺体があり、いつかは自分もそこに横たわるからです。これは可能性ではなく、絶対性であります。絶対来る自らの死と対峙するのが、葬儀であります。私たちは単なる慰めではなく、聖書の絶対的な約束がこのところにあります。「なぜ、こんなことが起るのですか?」というのは、罪と死と悪魔が支配している以前の時代だったからです。新天新地が訪れる前、「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示録211)と書かれているからです。聖書で「海」は獣が上ってくる、不吉な場所として暗示されています。しかし、そういう場所もなくなるのです。

 他に、新天新地にないものは何でしょう?黙示録223-5「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」このところには、「のろわれるものは何もない」とあります。英語の詳訳聖書をみると、「のろわれた」「憎むべき」「汚らわしい」「不快な」とあります。そこには、神さまが忌み嫌われるものが存在しないということです。その根源は、悪魔でありサタンです。また、黙示録21章と22章に、新天新地に入れない人たちのリストがあります。3か所ありますが、共通してでてくるものがあります。人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを行う者です。この4つが重い罪であり、のろわれる者になるのではないかと思います。ということは、これらの罪は他の罪よりも神さまが好まれていない重い罪だということです。世の中には、オレオレ詐欺など、人を騙す人たちがいます。ある人は何千万円も騙し取られて、返ってこないで泣いている人がたくさんいるでしょう。神さまは真実なるお方ですから、偽りを行うものが大嫌いなのです。

 また、新天新地には、夜がないばかりか、太陽も月もありません。一体これはどういうことでしょう?私たちは他の天体に移り住むのでしょうか?Ⅱペテロ312,13「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」とあります。おそらくペテロは、世の終わりの天変地異のことを語っているのでしょう。でも、千年王国において一度、地上は回復されます。しかし、新天新地は回復ではなく、新創造です。なぜなら「以前の天と、以前の地は過ぎ去り」とありますので、現在私たちが見ているような、太陽や月が存在しないかもしれません。天文学者たちは、太陽はいつか燃え尽きると言っています。その理由が記されています。黙示録2123「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」なんということでしょう?神である主と、小羊が光源になるということです。ヤコブ117「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」アーメン。私は自然界には夜が必要だと思いますが、新天新地には不必要なのかもしれません。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。これは、私たちの時代だけではなく、やがて来る、新天新地でもそうだということです。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」のです。アーメン。

2.新天新地にあるもの

 次は、新天新地にあるものを取り上げたいと思います。「ある」というと失礼ですが、神さまがともにおられます。黙示録203「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて」。「見よ」と言われていますので、今よりも、ずっと神さまが近くにおられるということでしょう。Ⅰコリント13:12 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」と書かれています。この地上では、神さまの臨在を知ることは、とても霊的で信仰が必要です。伝道者はよく「今ここに神さまが臨んでおられます」と言います。でも、「本当かな?」と思ったりします。なぜでしょう?私たちはこの地上では、肉体の五感に頼って生きているからです。神さまは霊なので、なかなか察知できません。でも、黙示録203節には「神がともにおられる」と三度も書いてあります。「ともにあり」「ともに住み」「ともにおられる」と、あえて三度も書いてあるのは何故でしょう?ある人たちは「私は神の存在を信じています」と言います。でも、それはどこか遠くにいる神さまで、自分とは関係がありません。クリスチャンはそんな言い方はしません。「神さまは私とともにいます」と言います。「では、見せてくれ」と頼まれても、「はい、どうぞ」という訳にはいきません。でも、新天新地では、ありありと神さまがともにおられるので証明する必要はありません。「神の栄光が都を照らす」(黙示録2023と書いてありますので、霊的に鈍い人でも何も問題がないと思います。

 次にあるのは、「いのちの水の川」と「いのちの木」です。ヨハネ黙示録221-2「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」この描写は、創世記のエデンの園と非常に対照的です。エデンの園にも川が流れていました。また、園の中心には「いのちの木」がありました。アダムはいのちの木ではなく、善悪の木から取って食べたので堕落しました。その時、主なる神は「彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとエバをエデンの園から追い出しました。しかも、ケルビムという天使が回る剣を持って、いのちの木への道を守っています。しかし、新天新地ではいのちの川と、いのちの木があります。いのちの木は一本ではなく、川の両岸にあり、「十二種の実がなり、毎月、実ができる」と書いてあります。かなり、Version up されています。エゼキエル47章にもいのちの川といのちの木のことが預言されています。そこには「その実は食物となり、その葉は薬となる」と書いてあります。この地上では、木になる果物は花が咲いて実がなるので年に1回だけです。エゼキエル書47章には「その葉は枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける」と書いてあります。アーメン。

 私はこれらの記事を読んで思ったのですが、新天新地にはとてもロマンがあると思いました。私たちは、永遠のいのちが与えられているのですから、何も食べなくても生きていけそうです。でも、霊と魂は不滅かもしれませんが、肉体はそうではありません。おそらく栄光の体なのでしょうが、いのちの木から取って食べる必要があるのではないでしょうか?また、食べるというのはただ生存するためだけではありません。食べる喜びや楽しみがあります。イエス様が地上におられたとき、よく食事をしておられました。イエス様は最後の晩餐で「私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで、もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ2629とおっしゃいました。ということは、新天新地には飲んだり、食べたりすることがあるということではないでしょうか?「十二種の実がなり、毎月、実ができる」とあるので、毎月、その実が違うということです。エジプトから脱出したイスラエルの民は、天からのマナに食べ飽きて、不平不満をもらしました。でも、新天新地にはそういうことがありません。また、「飽きる」というのは罪の一種なので、いつも新鮮なのではないでしょうか?しかも、毎月、12種類の実がなりますので、マナとは違います。monthly月毎に、私たちは異なる実を食べます。マンゴー、パパイヤ、もも、梨、かき、りんご、アボガド、栗、バナナ、ドリア、これでもまだ10種類です。肉や魚はなくて、主食はこのいのちの木から採れる果実かもしれません。「木の葉にいやしがある」というのは、やはり私たちの肉体と関係があると思います。いのちの木で生命を維持していますが、肉体を持つゆえの問題があるのかもしれません。でも、その葉には癒す力があります。そのため、病院で治療を受ける必要もありません。この地上でも、木の葉にいやしの力があります。ハーブは植物ですが、シナモンとか月桂樹、メープルなどは樹木です。最近、マヌカハニーというのが健康にとても良いことが発見されています。これ以上、専門家でないので分かりません。

 詩篇16篇には主のもとには楽しみがあると記されています。この詩篇は、千年王国に住む私たちを預言しています。詩篇16:9-11「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。

3.新しいエルサレム

 新天新地のメイエベントは、新しいエルサレムでしょう。私たちはこのところに集まって、神さまの御顔を仰ぎながら、礼拝するのです。都の土台はきらびやかな宝石です。道路は透き通った純金です。神さまの栄光がその都を照らすなら、まぶしくて歩くことができないかもしれません。第三の新しいエルサレムにおいては、ウィットネス・リーが書いた本から、いくつか引用させていただきます。ヨハネ黙示録2110-12「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」ウィットネス・リーはこのように解説しています。「黙示録14章と17章では、バビロンは大いなる都です。しかし、黙示録21章において、新エルサレムは「聖なる都」です。バビロンの原則は大いなることです。しかし、新エルサレムの原則は聖なることです。あなたは偉大さを選びますか、あるいは聖を選びますか?今日、多くの人は大説教者、大奉仕者、大伝道者であろうとします。偉大であればあるほど良いのです。これはバビロンの原則です。私たちは小さくあることを学ばなければなりません。小さければ小さいほど良いのです。私たちは聖となり、分離されることを学ばなければなりません。私たちは自分を大きくしたり、自己宣伝したりすべきではありません。小さくあるためには分離されることが必要です。しかし、大きくなろうとすると、多くの混合が必要になります。混合が多ければ多いほど、それはより大きくなります。背教のローマ・カトリックは大きいです。それは、ローマ・カトリックが大いなるバビロンとして、多くの物事の混合であるからです。教会と新エルサレムの原則は、それが聖なる都であって、大いなる都ではないということです。大いなる都は焼かれてしまうでしょう。しかし、聖なる都は主の満足であるでしょう。」なんと霊的なのでしょう。感服いたしました。私は亀有に赴任したとき「大いなるものになろう」としていたのですね。私にはあまり似合わないかもしれませんが、今後は、聖なるものになろうと努力いたします。アーメン。

 次に都の形を見て行きたいと思います。黙示録2115-17「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」都は四角であると書かれていますが、正確には立方体、正六面体です。この形のもっとも古いのが神の幕屋の至聖所です。3つの寸法が等しく、長さ10キュビット、幅10キュビット、高さ10キュビットありました(出エジプト262-8)。その後、ソロモンが神殿を造りました。神殿の至聖所は、全部が幕屋の倍で、長さ20キュビット、幅20キュビット、高さ20キュビットありました(Ⅰ列王記620)。では、新エルサレムはどうでしょう?旧約の幕屋と神殿は、聖所と至聖所に分かれていました。しかし、神の幕屋としての新エルサレムは1つの区分しかありません。これは、二つの区分の間の幕がなくなったということです。新エルサレムの寸法が3つの方向で等しいということは、それがあらゆる点で完全で完璧だということです。そして、三方向の寸法は、一万二千スタディオンです。1スタディオンを185メートルとするなら、2,220キロになります。ちなみに日本は宗谷岬から沖ノ鳥島までが約2,845㎞あるそうです。私たちが思っているほど、都は大きいということです。

 最後に城壁と門と道路です。これこそクライマックスです。黙示録2118-21「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」碧玉はjasper ですが、不純な石英で、酸化鉄や緑泥石などの不純物により赤や緑色に色づいているそうです。つまりこういうことです。都は純金であって、純粋なガラスのようです。一方、壁は分離のために、都の周りに建てられています。都は純金ですが、壁は碧玉であり、都の外観を示しています。不思議なのは土台にものすごい高価な宝石が用いられているということです。なんと道路は透き通る純金でできています。私は土木建設に携わったことがありますが、構造物の土台は砂利やコンクリートで最も安価なものが使われます。道路も砂利とアスファルトです。 アスファルトはいわば石油のカスです。神さまはどうでも良いような土台や道路に宝石や金を用いるとは何と金持ちなのでしょう。    

 さまざまな土台の宝石について、ウィットネス・リーはこのように述べています。「都そのものは金です。それは、私たちの内側の神聖な性質を表徴します。神聖な性質は、私たちの共通の分け前です。主イエス様を信じさえすれば、私たちはみな神聖な性質を持ちます。第1から第12までの宝石に関しては、私たちは異なっています。ある信者たちは、救われた時に受けた金、すなわち神聖な性質を持っているだけです。彼らには、あまり内側に建て上げられた宝石がありません。宝石は内側の聖霊の働きを表徴します。宝石は、強烈な熱と高圧を経ることによって、異なる要素が化合したものです。たとえば、木は燃えて炭素になり、それから長い期間に圧力をかけられて宝石になります。私たちは燃やされて、圧力をかけられなければなりません。この言葉に驚かないでください。私たちの多くはこのような経験があります。多くの場合、主は私たちのために『オーブン』を按配します。時には、主は高温を使います。また、別の時、主は低めの温度を使います。ちょうど姉妹が何度の熱で何を焼くべきかを知っているようにです。多くの場合、主はこのようにして私たちをオーブンに入れました。私たちの周囲の親愛な人でさえ、私たちにとって高熱になることもあります。時には、自分の妻だけでは十分でありません。私たちはまた、子どもたちに「燃やして」もらう必要があります。妻が夫を「燃やす」こともあるでしょう。それから、子どもたちもまた、彼を燃やすように努力します。しかし、姉妹たちも安楽な生活を送っているわけではありません。多くの夫は彼らの妻を燃やす強烈な熱です。私たちは、燃やすことと圧力をかけることのゆえに主を賛美します。元々、私たちは木、草、わらにすぎません(Ⅰコリント312)。ですから、私たちは宝石になるために、燃やされることと圧力をかけられることが必要です。」アーメン。城壁の土台には、12種類の宝石があります。私たち各自の内側にあるキリストの経験は、さまざまです。神聖な性質は私たちすべてに共通です。色と輝きが違う城壁の土台は、私たちのキリストの経験を表徴していることを感謝します。

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2019年8月 9日 (金)

最後の審判 ヨハネ黙示録20:7-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.11 

 昨年から主題説教を続けておりますが、きょうのテーマは非常に厳粛なものです。私は説教を準備しながら虚脱感に襲われ、深いため息を何度もつきました。でも、このことを語らなければ、その後に続く、新天新地もありません。「最後の審判」はミケランジェロの大作であり、ほとんどの方は何かでご覧になった経験があると思います。身の毛もよだつと申しましょうか?あまり触れたくない内容ですが、思い切って、聖書から共に学びたいと思います。

1.第二の復活

 私たちはこれまで、「よみ」、「御国(千年王国)」について学びました。よみというのは、死んだ魂が行くところですが、キリストの復活昇天によって、様子が変わりました。なぜなら、イエス様がよみの上部を引き上げて、パラダイスを作られたからです。現在、悪人と不信者はハデスにとどまっていますが、信仰者はパラダイスで安らいでいます。これから患難期を経て、御国(千年王国)がやってきます。そのとき復活があります。これは第一の復活と呼ばれています。キリストが再臨されるとき、パラダイスにいた人たちがよみがえるのです。正確に言いますと、死んだ肉体がよみがえり、パラダイスにいた魂と合体するということです。そして、この人たちは御国(千年王国)に千年間、住まうということです。御国において、ある人は褒賞という報いを、ある人は懲らしめという報いを受けるでしょう。彼らは生前の行いによってさばかれます。これを「キリストのさばき」と言います。しかし、このさばきは火の池(地獄)でないことは既に申し上げました。御国は良い行いと関係があり、信仰者たちが報いを得る場所です。その後、何が起こるのでしょう?黙示録20章後半には、千年の終わりにサタンがその牢から解放されるとあります。サタンは1000年間縛られていたことになります。でも、彼は解放されて、諸国の民を惑わします。残念ですが、神に逆らう人たちがゴグとマゴグに集まり、戦いが始まります。彼らは聖徒たちの陣営と都を取り囲みます。しかし、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くします。黙示録2010「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」「彼ら」というのは、千年王国を経ても神に逆らった人たちです。もう一度、ふるいにかけられなければならないとは、人間は何と罪深いのでしょうか。前にも言いましたが、御国に入りきれず、暗闇で歯切りしている者たちもいました。ある人たちはゲヘナの火で焼かれても、その魂がきよめられていなかったのです。私たちは春先、焼畑のシーンを目撃することがあります。焼畑は、害虫などを駆除するためのものです。草は焼かれますが、根っこが生きているので、新芽が生えます。千年王国は魂のきよめの時でもあったのです。でも、それでもきよめられない魂がいるとは残念です。

 その後、第二の復活が起こります。黙示録2013「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」第一の復活はキリストが再臨するときに起る千年王国の直前でした。しかし、第二の復活はハデスにいた人たちが復活するのです。でも、「海はその中にいる死者を出す」とは不思議な表現です。G・Hペンバーという人は「海の中にいる死人は人類ではなく、アダム以前の時代に生きていた生き物の霊(悪霊)である」と言いました。黙示録11章と17章で獣が底知れぬ所(アビス)から上ってくると書いてありますが、海がアビスの出入り口なのかもしれません。海は神の敵がいる場所ですから、神はそれを取り除かなければなりません。聖書で海は不吉なものであり、新天新地には海が存在しません。前にも言ったことがありますが、肉体は死んでも魂は生きています。そして、聖書では肉体が死ぬことを、「眠る」(Ⅰテサロニケ413-15)といいます。眠るということは、いつかは目覚めるという概念がこめられています。ヨハネ528,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」これはイエス様のことばですが、クリスチャンはキリストの贖いを信じているで、善なるものであります。罪と悪はキリストの贖いによってすっぽり覆われていると考えるべきです。でも、神のさばきを受けるために復活するというのは、気の毒なことです。一体どれだけの数が海と地から復活するのでしょうか?その数たるや何百億、何千億かもしれません。

 私たちはあまりヨハネ黙示録から学びません。難しいし、きっと先のことだろうと思うからです。私たちは「イエス様を信じたら天国に行けますよ」と伝道します。しかし、天国はあまりにも漠然としています。クリスチャンはもう少し勉強して、言い方を変える必要があります。この世ではあまりにも天国が安売りされているからです。私たちクリスチャンは死んだら、天国に行くのではなくパラダイスに行くのです。そしてキリストを信じていない人、新生していない人は、よみ(ハデス)に下るのです。ルカ16章でも学びましたが、そこは地獄の一丁目のように火炎が迫っています。しかし、それで終わりではありません。両者とも肉体が復活します。第一の復活というのは、御国(千年王国)の直前復活する人たちです。彼らの魂はパラダイスにいました。今度は、イエス様のような復活のからだをいただいて千年間御国で生活するのです。しかし、第二の復活もあります。これは御国(千年王国)の直後に起ります。地上の時間で、千年遅いということです。彼らの魂はよみ(ハデス)にいました。今度は神のさばきを受けるために、肉体が復活するのです。これを第二の復活と言います。第二の復活の人たちは希望がほとんどありません。なぜなら、自分の義によって神さまの前に立たなければならないからです。第二のポイントで学びますが「最後の審判」です。そこには弁護をしてくださるイエス様はおりません。単独で義なる神さまの前に立つということです。高木慶太師は、それを宇宙服にたとえています。宇宙は真空なので、血液が沸騰すると言われています。クリスチャンはキリストを信じているので「神の義」をすっぽりかぶっています。罪と汚れがすっぽりと覆われています。でも、キリストを信じていない人は、義の衣がありません。宇宙服のない状態で、宇宙にいるのと同じです。どうか、キリストを信じて、神の義をいただき、第二ではなく、第一の復活に預かってください。

2.最後の審判

 ヨハネ黙示録20:11,12 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」これが、「神の白い御座のさばき」と呼ばれる、最後の審判です。そこにはいくつかの巻物があることがわかります。第一の巻物は未信者の働きと行為の記録であり、第二の巻物はいのちの書です。「いのちの書」の存在は、出エジプト記32章に記されています。山から下りてきたモーセが金の子牛を拝んでいる民を見て、愕然としました。そして、神さまにこのようにとりなしています。出エジプト3232,32 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」おそらく、この書物はいのちの書であり、モーセの時代からその存在が信じられていました。イザヤ42,3「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」つまり、いのちの書には、旧約時代の人たちも含まれているということです。もちろん、キリストを信じる人たちの名も記されています。ピリピ43「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」私はいのちの書に一度でも名前が記されたら、消されることはないと信じます。昨年、公文書が改ざんされるという大事件がありました。ある部分がすっぽり抜けていたり、あるいは書き換えてられていました。でも、いのちの書にかぎってそういうことはありません。いのちの書に名前が記されたら、消されることはありません。なぜ、そんなことが言えるのでしょう?神さまの選びがあるからです。確かに信仰には私たちの意志や願いがあります。でも、神さまがそのことを受け入れ、承認して下さらないと救いはなりたちません。ある人は信じていないのに洗礼を受けるかもしれません。でも、神さまはすべてをご存じです。神さまがこの人は信じていると分かります。そして、いのちの書に名前を記すのです。救いを支えているのは私たちの信仰ではありません。神さまの選びが私たちの救いを支えているのです。だから、年とって頭がぼけて、信仰がおかしくなっても大丈夫です。

 では、なぜ、あえて最後の審判のとき、「いのちの書」が開かれるのでしょうか?彼らはすでに「キリストのさばき」を通過して永遠のいのちをいただいているはずです。私は確認であろうと思います。私たちは空港で出国審査を受けます。順番が来たら、パスポートと搭乗券を出します。パスポートの写真と顔を照合され、パスポートに出国スタンプを押されて、審査終了です。中には偽造パスポートの人もいます。だから、間違いのないように、いのちの書とその人自身を照合するのです。最後の審判がどういうものであるか分かりませんが、罪のさばきではありません。ヨハネ525「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエス様は「さばきに会うことがない」とはっきり約束しておられます。なぜなら、イエス様がその人の代わりにさばかれたからです。エペソ113,14「あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。私たちには聖霊の証印が押されているのですから、間違うことはありません。最後の審判をちゃんとパスすることができます。聖霊の証印は目には見えませんが、御使いにはきっと見えるでしょう。昔、稲毛浜海浜プールに子どもたちを連れて行ったことがあります。プールの敷地か海岸に行ける出入り口があります。そこには係員がいて手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬ひやっとしますが、目に見えません。再び海からプールに戻るとき、係員は虫めがねみたいなものを当てます。すると、手の甲にスタンプが押されていることがわかります。蛍光塗料みないたものなのでしょう。

 問題は、いのちの書に名前をしるされていない人たちです。彼らは行いによってさばかれます。義なる神さまの前に、自分の正しさで立ち尽くせる人が果たしているでしょうか?彼らは神さまの前でひとり一人申し開きをしなければなりません。「いや、そんなことはしていません」と言っても、書物に記されています。書物は複数ありますので、各方面からさばかれるのではないかと思います。罪には大きく分けて2種類あり、 行った罪と行わなかった罪があります。それらのことが克明にしるされています。人間でもコンピューターにたくさんの情報を入れることができます。何千冊の本でも、CDロム1枚に入ります。私はカシオのEX-wordを持っていますが、国語や英語の辞書はもちろん、広辞苑、ブリタニカ大辞典、図鑑、名作集…数多くの本が入っています。もし「そんなことはしていません」と言ったなら、その時の画像が「ばーっ」と出てくるでしょう。動画がばっちり出てきたら、もう言い逃れはできません。暗やみでしたことも明るみに出されるでしょう。この地上では、裁判があり刑罰があります。被害者の家族は上訴しても、刑罰が軽すぎると思っているかもしれません。また、この地上のさばきを逃れた、罪がたくさんあります。ある事件は闇に葬られ、ある事件は時効になっているかもしれません。「本当に神はいるのか」と泣いている人がたくさんいるでしょう。でも、大丈夫です。この地上でさばかれなかったものは、その分多く、神さまの前でさばかれるでしょう。私は遠山の金さんや大岡越前、必殺仕置き人などをたくさん見ました。さばきが正しく行われない人たちの悲哀があとでさばかれるようになっています。しかし、それは人間が作った物語です。でも、神の白い御座のさばきは完全です。ちゃんと決着がつけられるようになっています。

3.第二の死

 ヨハネ黙示録20:13-15「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」もう一箇所引用いたします。黙示録218「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」このところには「第二の死」と書かれています。人はだれでも一回は死にます。例外的に、世の終わりキリストが再臨したときに生きている信者は、死なないで天に移されます。しかし、それ以外の人はすべて肉体的に一度死にます。「え?死ぬのは一回限りじゃないの?」と質問されるでしょう?でも、聖書には肉体の死と、魂の死があります。私たちの魂は永遠に生きるように造られました。創世記1章に「神のかたちに似せて造られた」と書かれているのは、私たちの魂が永遠に生きるように造られたということです。でも、この魂を神さまは滅ぼさなければなりません。本来、地獄は人間のために造られたのではなく、サタンのその仲間のために造られたのです。黙示録20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」ですから、神さまの本来の目的は、サタンに最終的なさばきを下すことです。人類歴史の最初から最後までにもたらした、数かぎりない悲劇と不幸を考えると、このときは最高の歓喜の時です。天には大群衆の歌がこだまします。

 でも、残念ですが、新天新地にすべての人を迎えるわけにはいきません。黙示録21章には、このような罪を犯した者は入れないとありますが、その中に「不信仰の者」とあります。これはキリストの救いを拒んだ人であります。そして、その人はいのちの書にも名前がありません。せっかくのチャンス、神の愛を拒んだということは他の罪と同じような扱いになっています。その人は、殺人を犯したり、不品行や魔術を行っていないかもしれません。でも、サタンと同じ火と硫黄との池に投げ込まれるとあります。ある人たちは、「神さまは愛なので、地獄などは造らない。みんな救ってくださるだろう」と言います。しかし、新天新地に入れる人は、いのちの書に名前のある人たちだけです。なんと厳粛なことでしょう。ウィットネス・リーはある本で、こう述べています。「最終的に、聖書の終わりには二つの結末があります。すなわち、積極面では新エルサレムであり、消極面では火の池です。神は地から新エルサレムを生み出し、海を地に縮小させます。元々、大きい海であったものは、今、火の池の中にあります。私たちは、これを家を掃除することにたとえても良いでしょう。最初は、ゴミだらけであるかもしれませんが、私たちが掃除した後、それらは小さなゴミ箱の中に片付けられます。同様に、宇宙にある、すべての汚れ、間違ったものは、わずかな場所である火の池に制限されます。」イエス様はマタイによる福音書で地獄を「ゲヘナ」と呼んでいますが、それは焼却炉と言う意味です。

 地獄はあります。今はありませんが、千年王国が終わり、新天新地がはじまる直前にあります。まさしく、不要なものを焼き尽くすのは、新しい世界を迎えるのに必要なことかもしれません。よく私たちは「地獄のように熱い」とか「地獄のような苦しみだ」と言います。しかし、本当の地獄を一度でも見たなら、そんなことは言えなくなるでしょう。また、最大級に怒っていることを「カム着火インフェルノ」と言うそうです。インフェルノというのは、ダンテの『神曲』から来たものです。Infernoは一般に「地獄」と訳されますが、灼熱地獄です。ダンテは地獄篇を書いていますが、まるで見てきたように書いています。神曲によると地獄は逆さ円錐で9層に分かれています。地獄の門に来たとき、「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」ということばがきざまれていました。ダンテは先生に連れられて、第一から第九までの圏谷(たに)を訪れます。私も本を読みましたが、ウィキペディアから少し引用します。第一圏は「辺獄(リンボ)」です。洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす場所です。第二圏「愛欲者の地獄」です。肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流されている。第三圏は「貪食者の地獄 」です。大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれてぬかるみでたうち回っている。でも、礼拝にメッセージにふさわしくないので、最後の第九圏「裏切者の地獄」を紹介して終わります。コキュトス」(嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。そこにはキリストを裏切ったユダがいます。あとはご自分で調べてください。とにかく、ダンテが言うように、地獄の門に来たなら、一切の望みを捨てなければなりません。

 『天国と地獄』という本を読んだがあります。メアリー・バクスターという人は、40日間、イエス様に連れられて天国と地獄を体験したそうです。その手の本が今、いっぱい出版されていますので、「まゆつばもの」と思うかもしれません。もちろん、聖書でないので霊感されていませんが、ポイントだけでもご紹介したいと思います。第一は地獄に下った人たちは激しい苦しみの中で、大変後悔しています。第二は、彼らはイエス様に「犯した罪を悔い改めますから」と懇願しています。しかし、イエス様は「あなたが地上にいた間、私はあなたを私のもとに来るように何度も何度も呼びました。しかし、今では遅すぎます」と答えました。第三は、サタンと悪霊がそこにいて苦しみを増し加えているということです。第四は、彼らは生前犯した罪にふさわしい場所にいます。ダンテの『神曲』と似ています。何年か前に、フランクリン・グラハムという人が武道館でメッセージしたことがあります。「あなたは今晩、心臓が止まっても天国に行ける自信はありますか?」と何度も繰り返し、語っていました。正直、この手のメッセージは好きではありません。人を脅して、信じさせようとしているように思えるからです。もちろん地獄に行かないで、天国に行くことは救いの一局面です。でも、永遠の滅びがあるからこそ、永遠のいのちもあるのです。良い面だけを語りたくなりますが、永遠の滅び、地獄は存在します。死と地獄を免れる道は、イエス・キリストを救い主、主として信じる以外にありません。

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2019年8月 3日 (土)

御国における報い マタイ19:27-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.4

 教会では「人は救われたら天国に行くことができる」と言います。この世のおいては、「天国」はあまりにも安売りされているので、私は「御国」と言ったり、「神の国」と、あえて言うようにしています。ややこしくなりますが、御国(神の国)は二段階でやってきます。第一段階は御国です。ヨハネ黙示録においては「千年王国」という名称で出てきます。第二段階は新天新地です。これは御国の完成形であり、Ⅰペテロ3章と黙示録21章に出てきます。きょうは御国、つまり千年王国における報いについて学びたいと思います。報いには二種類あり、褒賞とさばきです。

1.御国における褒賞

 マタイ1927そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「そのとき」とは、青年役員が財産を惜しんで、悲しみながら去って行った直後です。私たちは「ペテロ、報いを求めるなんて意地汚いぞ」と言いたくなります。でも、イエスさまは何と答えられたでしょうか?マタイ1928 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」イエス様は弟子たちにすばらしい約束を与えられました。このところに「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時」とありますが、いつなのでしょう?これこそ、弟子たちが待ち望んでいた御国でした。弟子たちはイエス様がローマを倒して、地上にイスラエル王国を再建して下さると信じていました。しかし、「世が改まって」と言うのは、この世が終わって、次の時代という意味です。マルコによる福音書10章では「今のこの時代」と「後の世」とはっきり分けています。ギリシャ語のアイオンは、「時代」とか「この世」「現世」という意味があります。つまりこういうことです。私たちが今、住んでいる時代がやがて終わります。その後、御国(千年王国)がやっています。さらにその後、新天新地という永遠の御国がやってきます。冒頭でも申し上げましたが、御国は二段階でやってきます。そして、ここが重要です。御国(千年王国)は行いによって報われるところです。その後に来る、新天新地は行いではなく信仰による賜物です。イエス様を信じて義と認められた人が必ず行けるところです。

 マタイ19章で言われているのは、御国(千年王国)のことです。実はマタイによる福音書で「御国」という場合、ほとんどが千年王国のことであり、新天新地ではありません。ある人たちは、「天国は平等なところだ」と誤解しています。確かにイエス様を信じたら永遠のいのちをいただき、新天新地に入ることができます。しかし、その前に来る、御国(千年王国)は平等ではありません。その人の行いによって褒賞を受けたり、さばきを受けます。また、ある者は暗闇に投げ込まれるでしょう。でも、イエス様を信じた人たちなので、地獄ではなく、やがて新天新地に入ることはできます。このことが分かると、キリストを信じるだけで救われるという「信仰義認」がよく分かります。弟子のペテロは御国における報いを期待していました。イエス様は「意地汚いぞ」とはおっしゃらず、弟子たちが受ける褒賞について語っておられます。「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」とおっしゃいました。御国の第一の特徴はイスラエルが回復するということです。エルサレムにおいて、弟子たちが12部族をさばくのです。このことはイザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書にも預言されています。第二の特徴はすべての被造物が回復します。荒野に川が流れ、花が咲き乱れます。同時に目の見えない人が見え、耳の聞こえない人が聞こえ、足のなえた者は鹿のように飛び跳ねるでしょう。第三は報いです。きょうはこのテーマで学びますが、報いとは褒賞とさばきです。パウロはⅠコリント9章でこう言っています。Ⅰコリント924,25「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」御国は平等ではありません。「朽ちない冠」「いのちの冠」「義のかんむり」などの褒賞があります。パウロは自分が失格者にならないように、自分のからだを打ち叩いて従わせると言っています。つまり、パウロは御国において、神の栄冠を得るために努力しているのです。

 エペソ2章には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…神の賜物です。行いによるのではありません。」書かれています。しかし、これだけを強調すると、「ああ、これで死んだら天国に行ける。あとは好きなことができる。何でも赦されているから」となります。ある意味で、信仰義認は怠け者を作ってしまいます。かといって、「信じるだけではダメなんだ、良い行いも必要だ」と言うなら、キリストの十字架の贖いを否定することになります。キリスト教の異端は、みな善行を付け加えます。彼らはとても熱心ですが、根底にあるのは「恐れ」です。なんとか天国に入ることができるように頑張っています。でも、救いは賜物ですから、行ないではありません。はっきり申し上げますが、クリスチャンは神のさばきを受けることはありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりにさばかれたからです。そして、クリスチャンは必ず、新天新地に入ることができます。でも、行いによって御国における報いが違ってくることを忘れてはいけません。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」「キリストのさばき」は「神の白い御座のさばき」と違って、火の池(地獄)に投げ込まれるものではありません。いかに忠実であったかどうか、さばかれるのです。私たちは「タラントのたとえ」のように「良い忠実なしもべだ」とほめられたいと思います。また、ミナのたとえでは、十ミナ儲けた人は十の町を、五ミナ儲けた人には五つの町を治めるように言われています。このように、御国では行ないによる報いがあるということを知っておく必要があります。賜物や召命は違っても、御国において、神さまの褒賞を得るために信仰生活を送りたいと思います。

2.御国におけるさばき

 私たちは永遠の滅びという地獄ではなく、神の懲らしめとかさばきがあることを知らなければなりません。ヘブル12章に「主の懲らしめを軽んじてはならない」と書かれています。私たちはよその子どもは叱ったり、懲らしめたりはしません。自分の子どもは矯正のために、叱ったり、懲らしめたりします。しかし、それは滅ぼすためではなく、我が子を愛しているからです。御国におけるさばきは、火の池(地獄)とは違います。これは矯正であり、こらしめです。その期間を終えたら、千年王国に復帰することができるでしょう。たとえそうでなくても、やがて来る新天新地には入ることができます。なぜなら、その人たちは創造主なる神さまとイエス・キリストを信じたからです。ただ、その行いが罪深くて、神さまに対して不従順だったということです。ローマ・カトリック教会では、修行の場である煉獄を信じています。彼らは天国に直接入れなかった人たちが罪を浄化するための煉獄を考え出しました。しかし、それは聖書的ではありません。聖書には御国(千年王国)の時代が、矯正やこらしめのためにあることを示唆しています。残念ながら、そのことを認めない神学者や教会があるので、「示唆」というところで押さえておきます。これから、いくつか聖書箇所を取り上げながら、論証させていただきます。これからは、ウォッチマンニーが書いた『神の福音』第三巻を参考にさせていただきます。

 ルカ1245-48「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」この物語は世の終わりに帰ってくる主人を待つ、しもべ頭のたとえです。このところではっきりしなければならないことは、このしもべは確かに救われた人です。でも、神のしもべであるクリスチャンは、良いしもべにもなれば、悪いしもべにもなることができます。もし救われた人が、不幸にして、よこしまなしもべになったとすれば、彼の最後はどうなるでしょうか?46節「彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません」とあります。日本語は「不忠実な者」ですが原文からは、「不信者たちと同じめに会わせる」が正しい訳だと思います。でも、こらしめに差があることがわかります。主人の心を知りながら、用意もせず、働きもしなかったしもべは多く打たれます。しかし、知らないでいたしもべは、むち打たれる数が少しだということがわかります。また、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」。これが、クリスチャンが将来、神の御前で受ける懲らしめです。

 もう一つの例は、マタイによる福音書から取り上げたいと思います。マタイ5章から7章における、山上での主の教えは、天の御国について語っています。これらの主の教えは、人がどのようにして天の御国に入ることができるかを告げています。そして、マタイ5章から7章は、「天の御国」と「報い」ということばが何度も一緒に使われているのが非常にはっきりわかります。たくさんの教えが書かれていますが、報われるのは、この地上ではなく、御国(千年王国)であることを知らなければ、実行不可能な道徳論で終わってしまうでしょう。端的に言うなら、この教えを守ったからと言っても、この地上では割が合わないことがたくさんあるということです。でも、最終的に収支決算するところは御国(千年王国)です。そこでは良い報い(褒賞)もあれば、悪い報い(さばき)もあります。しかし、多くの場合この「さばき」は火の池(地獄)ではなく、懲らしめとしてのさばきです。もっともひどいさばきは、新天新地に入れるけれど、御国(千年王国)には入れない信者がいるということです。その典型的な例が、以下のみことばです。

マタイ721-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』「あなたの名によって」と3度も述べられているので、これらの人々が主に属する人、クリスチャンであることを証明します。ところが主から「私はあなたを知らない」と言われました。なぜでしょう?彼らは救われた人でなかったということではありません。確かに彼らは預言し、悪霊どもを追い出し、多くの力あるわざを行いました。でも、父のみこころで行ったのではなく、自分の栄誉のため、自分勝手に行ったのです。今でもそういう伝道者がいます。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われていますが、「永遠の命から去れ」と言われたのではありません。「不法をなす者」のギリシャ語の意味は、「規則に従わない、規定に服さない人」を指します。彼は悪を行なったのではなく、神の規定、神のことばに従わなかったということです。この人は永遠の命は決して失うことはないにしても、御国においてはその地位と栄誉を失うかもしれません。

 マタイ25章では、世の終わりの備えについてのたとえ話がいくつか書かれています。5人の愚かな娘は、最後に戸を閉められて「私はあなたがたを知りません」と言われました。また、1タラント預かったしもべは「外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯切りするのです」と言われました。最も小さい人にしなかった人は、永遠の刑罰に入ることになりました。もし、信仰があっても、行ないによってさばかれて火の池(地獄)に落とされるなら、信仰義認と反します。彼らはすべて神のしもべであり、信者です。でも、彼らは御国(千年王国)に入れない人たちです。時間どおり千年かどうか分かりませんが、暗闇の中では歯切りすることになるということです。私たちは厳粛な思いで御国におけるさばきがあるということを受け止める必要があります。

3.良い行ないの意義

 第一ポイントで「御国における褒賞」、第二ポイントでは「御国におけるさばき」について語りました。両者とも報いです。良い報いと悪い報いと言った方が良いのかもしれません。肝心なのは、このさばきは、訓練とかこらしめという意味であり、火の池(地獄)ではありません。前にも引用しましたが、ウォッチマンニー著『神の福音』にはこのように述べられています。今日の教会の中には、1つの大きな誤りがあります。それは、「救われることだけが唯一のことであって、救われること以外には何も存在しない」と考えることです。そして、天の御国と永遠の命を同じものと考えています。人が信じていったん救われたなら、もはや働きについては心に留める必要がないと考えます。聖書は神の部分と人の部分とを明確に区別しています。一方は神によって与えられる救いであり、もう一方は御国(千年王国)の栄光です。救いは、人の働きと全く関係がありません。だれでもいったん主イエスを信じるなら、その人は救われます。しかし、救われた後、神はただちに第二のものをこの人の前に置かれます。そして、「救い以外に、褒賞、来るべき栄光、冠、王座が彼のためにある」と彼に告げられます。神は信者たちの前に、王座、冠、栄光、褒賞を置かれます。もし人が忠実であるなら、これらのものを得るでしょう。もし忠実でなければ、これらのものを失うでしょう。ですから、私たちは、良い行いは無益であるとは言いません。しかし、救いに関する限り、良い行いは無益であると断言します。人は良い行いによって救われるのではありません。また、悪い行いのゆえに救われないのでもありません。良い行いは、褒賞と冠と栄光と王座にふさわしい事柄です。良い行いは、救いという事柄では役に立ちません。神は行いによって人を救うことをなさいません。また神は、信仰によって人に褒賞を得させるものでもありません。

 ご理解いただけたでしょうか?簡単にまとめると良い行いは救いとは関係ありません。人は信仰によって恵みによって救われるからです。でも、いったん人が救われたなら、良い行いをすべきです。なぜなら、神は良い行いに対して、褒賞と冠と栄光と王座を備えておられるからです。聖歌687番『まもなくかなたの』という賛美があります。4節は「良いことを励み、流れのそばで、お受けいたしましょう。たまのかむりを。神さまのそばのきれいなきれいな川で、みんなで集まる日のああ、なつかしや」です。私はホーリネスの神学校基礎科で学びました。その時、教会学校担当の教師が、「4節は、信仰義認に反しているので聖書的でない」と言われました。その時は何とも思いませんでしたが、新約聖書にはいくつかの冠が出てきます。そして、その冠はみんなに平等に与えられるものではありません。私は「天国というところは不平等なところなのでは?」と思っていました。問題は「天国」を新天新地という永遠の御国に捉えていたことです。これはいわゆる「天国」ではなく、御国(千年王国)のことだったのです。ウォッチマンニーがこのように言っています。「今日の問題は、人々が救いと御国とを区別しないところにあります。聖書では、救いと御国、賜物と褒賞との間に明確な区別があります。」

 最後にこの箇所を引用して、メッセージをまとめたいと思います。Ⅰコリント311-15「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」このところで、クリスチャンが何を失い、何を失わないかを、はっきりと見ることができます。人はいったん救われれば、確かに永遠に救われるでしょう。その人は恵みによって新天新地に入ることができます。しかし、その人が褒賞を得ることができるかどうかは、今日決定され得るのではありません。それは、人が主イエスの土台の上にどのように建てるかによって決まるのです。私たちが褒賞を受けるか損失を受けるかは、私たち自身の建てる働きにかかっています。もし人が金、銀、宝石、すなわち永遠の価値あるものを用いて、主イエスの土台の上に建てるなら、彼は確かに褒賞を受けるでしょう。しかし、もし彼が木、草、わらを用いて建てるなら、神のみ前で褒賞を受けることはありません。人の前では多く得ても、神のみ前では多くを得ることはできないでしょう。このことは、人が自分の褒賞を失い、また自分の働きが焼き尽くされてしまう可能性があることを、私たちに示しています。

 私たちは行いではなく、信仰によって救われました。そして、救われた後は褒賞を得るために良い行いをすべきです。神さまのためではなく自分の名誉や欲を満たすため、汚れた動機で行うかもしれません。残念ですが、そういうものは全部焼き尽くされ、御国に入ることすらできなくなるでしょう。でも、「その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」とあります。これは御国での褒賞や冠が与えられなくても、永遠のいのち、救いは失わないということです。使徒の働き5章にアナニヤとサッピラが出てきます。彼らは持ち物を売って、その代金をささげました。ところが、一部を残しておき、まるで全部をささげたかのように振舞いました。ペテロは「人ではなく、神をあざむいた」ということで二人を叱りました。アナニヤとサッピラは即、打たれて死にました。では、彼らは罪を犯したので火の池(地獄)へ行ったかというとそうではありません。彼らはさばかれたために、肉体は死にましたが、救いは失っていません。彼らは火の中をくぐるようにして助かったのです。救いは悪い行いによって失われることはありません。ただし、御国における褒賞、冠が奪われることはあります。私たちはキリストを信じたゆえに罪の問題は解決されており、賜物として新天新地に入ることができます。ただし、現在の生活がやがて来る御国(千年王国)と密接に関係していることを忘れてはいけません。黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」命は信仰によって与えられます。命の冠を得るために忠実でありたいと思います。

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2019年7月27日 (土)

中世の教会 ヨハネ黙示録2:18-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.7.28

 テアテラにある教会は中世の教会を預言していると思われます。しかし、聖書のことだけを語ると偏ってしまうので、前半は歴史的な視野から中世の教会について説明したいと思います。1000年間のことを15分で話すというのは無理がありますが、たまには歴史の勉強も良いかもしれません。前半は歴史的な立場から中世の教会を考えてみました。後半はヨハネの黙示録から中世の教会を考えてみました。 

1.歴史における中世の教会

 一般の学校では「世界史」を学びますが、神学校には教会を中心とした、「教会史」なるものがあります。私は亀有教会の私設神学校『すずめの学校』(現在はスパローズ・セミナリー)で、教会史を教えてきました。また、教会史は牧師になるための必須科目であり、どうしても勉強しなければなりません。一般に、中世ヨーロッパは暗黒時代であり、諸悪の根源はキリスト教だと思われているでしょう。血なまぐさい宗教戦争や、十字軍、魔女狩りを連想して、「教会なんか行くもんか」と躓いている人もいるでしょう。また、多くの人はキリスト教というと、ローマ・カトリック教会を連想します。初めて来た人は「あなたは神父さんですか?」と聞きます。しかも、黒いガウンを着ていないので、「教会の召使いかな?」と思うかもしれません。当教会は16世紀に興った宗教改革の流れ、プロテスタント教会です。では、中世の教会は全く学ぶ必要はないのでしょうか?私は正直なところ、聖書の初代教会からは多くのことを学ぶべきですが、中世の教会はむしろ、キリスト教信仰の後退であり、堕落だと思っています。では、「プロテスタント教会が中世の教会から全く影響を受けていないか?」というとそうではありません。私たちは「これが当たり前だ」と思っていますが、全く聖書的ではなく、中世の教会から受け継いでいるものが多くあります。ウィットネス・リーがこのように述べています。「教会には階級があってはなりません。しかし、唯一の階級だけがあるべきであるとも言えるかもしれません。しかし、それは聖職者でも、平信徒でもなく、兄弟です。ある人たちは、今、『平信徒ミニストリー』とか、『平信徒伝道者』なとど言います。しかし、私たちは聖職者でも、平信徒でもありません。私たちは祭司であり、からだなる教会の肢体です。私たちはみなキリストのからだの肢体であり、みな神の祭司です。」アーメン。

今回は『1冊でわかるキリスト教史』(日本キリスト教団出版局)を参考にしました。第一は国王と教皇の関係についてお話しします。中世のキリスト教は、ゲルマン民族の移動によって西ローマ帝国が滅亡した時(476年)から始まったと言われています。ローマの帝権が弱くなり、そのかわりローマ司教の力が強くなりました。「大司教」と呼ばれたレオ1世とグレゴリウス1世が、ゲルマン民族を積極的に教化し、改宗に導きました。西ローマ帝国滅亡後、グレゴリウスは新生ヨーロッパの教会を主導する「教皇」の基盤形成に貢献しました。ご存じのように中世の教会は、国王と教皇の権力の凌ぎ合いが1000年間も続くのであります。最もキリスト教会に影響を与えたのが、フランク族が建立した「フランク王国」です。王様や後継者が洗礼を受けて、ローマ教会に仕えるようになります。751年ピピン三世(小ピピン)は、大司教から国王就任の塗油式を受けました。つまり、ローマ教皇が国王に油を注いで任命するようになったのです。小ピピンは敵国から奪い取った土地を教皇に寄進しました。これが、教皇領(各国にまたがって教会が持つ土地)の起源となります。やがてはイングランドとアイルランドをキリスト教化し、西ローマは東ローマを凌ぐようになりました。800年、小ピピンの子、カールが戴冠を受けると、476年に滅亡した「西ローマ帝国」の復活の瞬間でした。ちなみに、カール大帝はハートのキングもモデルです。実質的に、東ローマのビザンツ皇帝から独立し、ローマ・ゲルマン・キリスト教の3要素からなる西ヨーロッパの文化が成立していきます。しかし、カール大帝の死後、フランク王国は3つに分裂してしまいます。その後、東フランク王国が「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。今のドイツあたりです。しかし、ローマ教会は教皇権をめぐる争いが頻発し、弱体化していきます。司教職の売買、聖職者の妻帯が蔓延し腐敗の一途をたどります。叙任権闘争が起こり、国王が強くなり、逆に教皇を任命するようなことも起りました。200年に渡る十字軍の失敗によって、教皇権が弱体し、地方領主が没落して王権が強化されていきました。

第二は修道院と修道士についてです。教皇制と並んで、中世キリスト教を性格付ける重要な要素となったのは「修道制」です。キリスト教修道院の創始者は一般にエジプトのコーマ生まれのアントニウス(250年頃-356年)であると言われています。彼は「富める若者」に対するイエスの言葉に感激して自分の財産をことごとく売り、270年ごろ禁欲・断食・隠遁の生活に入りました。ただちに彼の追従者たちが現われ、4世紀の初めころシリアで急速に発展します。続いて、パコミウス(290年頃-346)は、個人的な要素を離れてそれを制度化し、発展改善して修道院の基礎を築きましした。彼は兵士でしたが、軍隊生活中キリスト教徒に出会い、徐隊後洗礼を受けキリスト者となったと言われています。小アジアではパコミウスの伝統が受け継がれ、カパドキヤのバシリウス(330年頃-76年)によって修道院規則はさらに発展をみました。カパドキヤの洞窟修道院は世界遺産になっています。東方より少し遅れて4世紀後半から、ガリア(現フランス)とアイルランドに修道院が出現しました。西方教会の修道制を決定的に方向付けたのは、イタリヤ中部で生まれたベネディクトゥスです。彼が定めた「清貧」「貞潔」「従順」の精神を説いた『戒律』が7世紀頃にはすべての修道院において規範となりました。やがて、ベネディクト会の改革から生まれたクリュニー修道院は、10世紀にはフランス、ドイツ、イタリヤ、イングランド、スペインなど全西方に約1000を数えるように至りました。13世紀に入ると、ローマ教会と教皇の腐敗の反動として、托鉢修道会が出現しました。彼らは土地や富を蓄えることを否定して、都市や農村を歩き回り、信者からの寄進のみで生活しながら、キリストの教えに忠実に生きようとする修道士たちの組織で、ドミニコ会とフランシスコ会が代表的な組織です。従来の修道会は、人里離れた地で農耕によって自活し、沈黙と観想の生活を送っていました。しかし、ドミニクスたちは都市を中心に清貧生活と説教の巧みさで民衆を教化していきました。修道士の労働も義務付けられなくなり、それに代わって、学問の研究が修道士の必須の徳目になりました。1181年、フランシスコ会の創設者アッシジのフランチェスコは、23歳のとき信仰に目覚め、すべてを捨てて主に従う生活を開始しました。彼は「小さき兄弟会」を名乗り、「清貧」「貞潔」「従順」という従来の修道誓願に従う生活を送り、各地を放浪しながら、説教を続けました。ドミニコ会同様、清貧を掲げつつも、洗練された都市民と渡り合える知的訓練を受け、巧みな説教を行なえた彼らは、中世後期の民衆キリスト教の成熟に大きな影響を及ぼしました。

第三は神学的な面です。古代キリスト教会で最大の思想家は、間違いなくアウグスティヌスでしょう。著作の量だけでなく、その扱った問題、領域は多岐にわたり、のちの西洋思想に与えた影響も計り知れません。アウグスティヌスは北アフリカのヒッポの司教でした。ところが、ゲルマンのヴァンダル族がジブラタル海峡を渡ってアフリカに来襲しました。430828日にヒッポの街がヴァンダル族に包囲される中、アウグスティヌスは亡くなりました。まもなく、西ローマ帝国が滅んで時代は中世に入ります。7世紀末、カール大帝は英国の教会から学者アルクィン(735-804年)を宮廷に迎え、王家、貴族の子弟の教育にあたらせました。宮廷学校は、ギリシア古典とキリスト教の学問上の修得に貢献しました。8世紀から「聖餐論論争」が起こりました。その頃から、パンとぶどう酒とは不死の食物であって、奇蹟によりそれらの素材はキリストのからだと血に変化すると考えるようになりました。現在のローマ・カトリックはその考えを受け継いでいます。11.12世紀にスコラ学と大学が誕生しました。「スコラ」とは、教会・修道院に属する学校(schoolの語源)のことです。スコラは元来、真理を知る方法を意味していましたが、その内容は、キリスト教信仰上の真理を理性的思考によって解き明かすことを目的としていました。神学で有名なパリ大学は、12世紀中頃、ノートルダム大聖堂付属の神学校から昇格したものです。イギリスでは、12世紀後半に神学で有名なオックスフォード大学がパリを引き上げてきた大学生によって、さらに13世紀のはじめにはオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて、ケンブリッジ大学が設立されました。今ではだれも分からないと思いますが、もともとは神学を学ぶために設立された大学だったのです。13世紀半ば、パリ大学を卒業したトマス・アクイナスがドミニコ会に迎えられ、かの有名な『神学大全』を著しました。序文の言葉によれば、「神学の初学者向けの教科書として書かれたものである」ということです。トマス・アクイナスのようなスコラ学者たちはアリストテレスの手法を用いて神学を再構成しようとしました。どちらにしても、中世の教会は「聖書をそのまま読む」というよりも、誰かの神学や哲学者の考えを基盤にしています。その当時は「ヴルガータ」と呼ばれるラテン語訳の聖書しかなく、一般の人たちには遠い存在でした。もっぱら人々は教会の礼拝に来て、短い講和と、聖餐をいただいて帰るというものでした。元来、彼らはゲルマンの神々を信じていたので、キリスト教信仰を持ったとはいえ、同時に様々な迷信を信じていたと思われます。

2.テアテラにある教会

 テアテラにある教会に与えられている注意すべきことは何でしょうか?ヨハネ黙示録220-22「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」このところに「イゼベル」という名前が出てきます。旧約聖書に書いてありますが、彼女はアハブ王の妃でした。バアル信仰をイスラエルに大々的に持ち込み堕落させた張本人です。このとき、預言者エリヤが立ち上がり、バアルの預言者と戦い、勝利して400人を切り殺しました。ところが、エリヤは、イゼベルの脅迫のことばを聞いて荒野に逃れました。大預言者がたった一人の怒った女性に恐れをなすとはどういうことでしょう?イゼベルの霊spiritは新約聖書でも働いています。バプテスマのヨハネはヘロデヤによって首を切られましたが、これもイゼベルの霊です。なぜなら、バプテスマのヨハネはエリヤの再来だったからです。また、使徒の働き16章にはテアテラ伝道のことが記されています。その町は、染色業などの取引が中心地であったようです。紫布商人のルデアが最初のクリスチャンですが、考古学的には、多くの職人組合があったようです。この職人組合には、クリスチャンは入ることができませんでした。なぜなら職人たちは、偶像礼拝をしていたからです。しかし、組合に入らなければ商売は上手く行きません。そこで教会の中にも、「偶像礼拝をしてもいいのではないか」と、妥協する人々がいたようです。その中心人物がイゼベルという女性でした。しかも、教会は、「そのイゼベルを放置して、なすがままにさせている」と非難されているようです。妥協的な信仰は、受け入れやすいので、人々に悪影響を及ぼしていきます。どんな熱心な教会、団体でも、この世と妥協したら、一度にだめになってしまいます。

 ウィットネス・リーは黙示録をこのように解説しています。イゼベルは自分自身を預言者と呼んで、主の民を教えています。新約の原則によれば、主は女が権威をもって教えることを決して許しません(Ⅰテモテ212)。同様に、教会自身は教えてはなりません。主の目には教会は女の地位にあるからです。しかし、歴史と現在の状況によれば、カトリックの人たちは言います、「教会はこう言っている」。カトリックの人たちに納得させることは困難です。もし、私たちが彼らに「聖書はこう言っている」と言うなら、彼らは「教会はこう言っている」と言います。私たちがどんなに多くの個所を聖書から引用しても、彼らは「教会はこう言っています」という1つの返事を持っているだけです。このように、彼らは聖書を顧みません。彼らは教会が言うことだけを顧みます。教会は最高の権威を持っています。教会が言うことはすべて正しいのです。この「教会」は邪悪な女イゼベルです。ローマ・カトリックは教える女です。この女の教えによって、多くの異教と異邦のものが教会の中にもたらされて、姦淫と偶像礼拝を引き起こしました。有名なローマ・カトリック教会の大聖堂は、イエスとマリヤの像だけでなく、ペテロやパウロや他の多くのいわゆる聖人の像を含む偶像礼拝で満ちています。多くの人々は、ろうそくをもって、これらの「教会」の中に入り、もっぱらこれらの偶像を礼拝します。カトリック教会内部の多くの邪悪な奥義は、過去、文書で公表されました。もし教会史を読むなら、私たちはテアテラに書き送られたこの書簡にある主の預言の実際の成就を発見するでしょう。その成就は、まさに主が預言されたとおりでした。6世紀から16世紀の宗教改革までの1000年間は、暗黒の時代でした。

 もし、私が個人的な意見をここで述べるならば、後でクレームを付けられる恐れがあります。でも、「ウィットネス・リーの本から引用しました」と言えば、少しは反感が和らぐでしょう。大体、私はカトリック教会に行ったこともなければ、カトリック信者と交わったこともありません。カトリック教会に行っている人で、私と同じように、プロテスタンンと教会に行ったこともなれば、交わったこともないという人もいるでしょう。おそらく、自分が通っている教会は正しいとだれでも思っているのではないでしょうか?数年前、「〇〇兄弟会」と呼ばれる、修道会に属している二人を教会に泊めたことはあります。その団体は、年に一度、一週間、何も持たずに国内を伝道旅行する訓練を持っていました。まさしく、イエス様の時代と同じことをしていました。数時間、二人とお話ししましたが、非常にまじめで信仰的にも間違っていないようでした。その中の一人は、平日は呉市の造船の検査技師として働いているそうです。もしかしたら、修道会は、カトリック教会と教義が違うのかもしれません。ローマ・カトリックは1962年から1965年にかけて、第二バチカン公会議を開いています。そこで教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされたようです。

 マタイによる福音書13章にこのようなたとえ話が書かれています。マタイ1333「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」このみことばの解釈は2つあり、1つは天の御国が知らぬ間に広がって行くという良いたとえです。もう1つは、聖書では多くの場合、パン種(イースト菌)は悪影響を及ぼす代名詞のように使われています。イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちの教えに気をつけるように言われました(マタイ1611)。そこでの、パン種は偽善をさしています。二人目の女性は、黙示録2章の教会を腐敗させているイゼベルです。そして、三番目の女性は黙示録17章に記されています。黙示録172「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」17:4,5「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。つまり、パン種の女、黙示録2章のイゼベル、そして黙示録17章の大淫婦バビロンも、ローマ・カトリックではないかと言うことです。

 そろそろ私たちは聖書からメッセージをいただく時を持ちたいと思います。第一は、イゼベルに対するさばきです。黙示録2:21-23「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。」このところに、不品行とか姦淫とありますが、これは多くの場合、霊的なものです。ある人たちは1つの宗教によって世界を統一しようと考えています。しかし、そこには、「必ずしもキリストでなくても良い」という妥協があるでしょう。神さまは「全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう」とおっしゃっておられます。つまり、神さまは私たちの隠された罪や偽善を知ることができます。私たちいつでも霊的な純潔、「キリストの御名のほかに救いがない」(使徒412)ことを覚えておかなければなりません。

 第二は、信仰を守る者たちへの報いです。黙示録224-26「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」道徳倫理は時代によって変わるかもしれません。しかし、私たちは相対的な考えを棄てなければなりません。神さまのことばと、キリストに対する信仰は絶対的なものです。世界には「1メートルはこの長さである」というメートル原器や「1キログラムはこの重さである」というキログラム原器なるものがあります。私たちの信仰の原器は、聖書のみことばです。教会の会議で決めたことが、基準になってはいけません。ある人たちは「聖書のみことばは解釈によって違うでしょう」と否定します。もちろん、解釈の仕方はいろいろあります。でも、これまでキリスト教会が持ち続けてきた、これが正統であるという幅があります。真理は極端な両端ではなく、真中にあります。しかも、ある程度の幅が許されています。もし、その真理の幅を超えるならば、それは異端になってしまいます。キリスト教会の歴史は、そういう意味で試行錯誤の歴史と言って良いかもしれません。でも、私たちは保守的な教会であることを喜びたいと思います。音楽や伝道の方法は新しくて構いませんが、聖書のみことばの解釈は保守的で良いと思います。なぜなら、そこには真理の研究に費やされた多くの時間と戦いのために流された犠牲の血があるからです。イエス様は何か新しいことをしなさいとはおっしゃっていません。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」今、持っている信仰を持ち続けることが大切です。

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